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『乱歩・白昼夢/浮世の奈落』斎藤憐(而立書房)

乱歩・白昼夢/浮世の奈落

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「<劇評家の作業日誌>(59)」

 音楽劇『上海バンスキング』で知られる劇作家・演出家の斎藤憐さんが、2011年10月12日、食道腫瘍による肺炎で亡くなった。享年70歳だった。


 本書は死後、最初に出された戯曲集である。この本は2本の戯曲が収められている。『乱歩・白昼夢』は2009年8月、『浮世の奈落』は2010年10月、いずれも結城人形座によって初演された(東京芸術劇場小ホールにて)。『乱歩・白昼夢』はこの劇作家の長年の蓄積が集約された感があって、傑作と言っていいものだった。今回はこの作品を中心に劇作家の生涯にも触れてみたい。

 年末も押し迫った12月25日、故人が最後に関わった「座・高円寺」および併設されたカフェ・アンリファーブルにて「斎藤憐さんを偲ぶ会」が催された。劇作家・福田善之や彼の舞台に数多く主演した女優・渡辺美佐子ら生前ゆかりのあった人たちのスピーチに始まり、戯曲のリーディングと故人の生涯がレトロスペクティヴに綴られた。劇作家という仕事は、概して孤独な作業ではあるが、彼は例外的に人付き合いが上手で、いろいろなものを動かしていくモーター的な存在だった。

 例えば、館長を務めた「座・高円寺」もその一つである。杉並区在住の劇作家に呼びかけて、廃館していた劇場を改装し、運営に乗り出した。黒テント以来の盟友・佐藤信を芸術監督にしたのも彼の采配だろう。

 さらに遡れば、この劇場とパートナーシップを結んでいる「劇作家協会」の設立にも、彼は大きく関与した。1992年に設立された「劇作家協会」は、それまで滅多に集まることのなかった劇作家たちが、彼の発案で一つにまとまり、事業団体として発足したのである。

だが彼は前面に出ることはなく、会長に先達の井上ひさしを押し立て、事務局長のポジションに身を引いた。二代目は同世代の別役実、そして三代目以降になると、自分より年少の永井愛、坂手洋二へと引き継がせていった。彼はあくまで黒子に徹し、若手と上の世代をつなぐパイプ役となり、時には後輩の劇作家たちの相談役にもなった。劇作家の養成セミナーを主導したのも彼である。その成果は『劇作は愉し』という著作に結実している。そこには彼の教育者の一面が垣間見える。

 劇作家・斎藤憐は1940年、朝鮮の平壌で生まれた。終戦後、引き揚げてきた彼は、やがて東京の成蹊中学・高校に進学し、演劇部に入部した。そこから彼の演劇人生は途絶えることなく続いた。早大露文を中退した後、66年に俳優座養成所に入所し、「花の十五期」と呼ばれる華やかなスタートを切った。

  だが彼は、俳優座を頂点としていた新劇に反旗を翻し、佐藤信串田和美吉田日出子らと自由劇場を創設し、「アングラ・小劇場運動」に身を投じていった。黒テント(演劇センター)の創設にも関わり、移動劇場用の最初の作品『翼を燃やす天使たちの舞踏』を他の3人の劇作家たちと共同執筆した。これは伝説的な舞台となったが、やがて彼は黒テントの運動から離れ、串田らの「オンシアター自由劇場」の座付き作家となり、そこで名作『上海バンスキング』を生んだのだ。だが彼は運動体としての劇集団に深く関わらず、フリーの劇作家を守り、木村光一の「地人会」など新劇側に寄っていった。

 1990年、斎藤は千田是也演出で『東京行進曲』を書き下ろした。その時、斎藤は「千田先生に演出してもらえることは望外な喜び」といった旨の発言をしている。わたしはアレッと思った。斎藤は佐藤や串田らと糾合して、俳優座に反逆したのではなかったか。それが「アンダーグラウンド」の運動であり、その打倒対象は千田是也であったはずだ。それとも、20数年経てば「蕩児の帰還」もありえるのか、と釈然としなかった。1990年という時代は、まだ新劇とアングラの対立は顕著だったのだ。逆に考えれば、両者の氷解、対立の解消の先駆けがこの頃だったのかもしれない。

 劇作家としての斎藤憐の真骨頂は、徹底した取材による記録文学とも言うべき作品性にあった。この先覚者に井上ひさしがいる。師匠格は福田善之だった。

 斎藤は後年、評伝劇にも手を染めていった。病床には、次回作、魯迅関係の書籍がうず高く積まれていたという。歌謡曲の大家・服部良一にも関心を寄せていたらしい。もっとも服部良一の次男は黒テントの俳優・服部吉次であり、彼の息子有吉は世界的なダンサーになった。公私に付き合いのあった芸術一家の評伝劇なら、さぞ興味深い作品に仕上がったろう。

 わたしは、斎藤憐さんととくに深い付き合いはなかった。ただ学生時代に、「オンシアター自由劇場」で『上海バンスキング』や『黄昏のカーニバル』の初演を観、また彼の初期作品『赤目』はとくに好きな戯曲だった。だから個人的にそれほど話す機会はなかったものの、畏敬の念を抱いていたことは確かである。

 例えば2005年に書かれた『春、忍び難きを』は、戦前のリアリズム戯曲の頂点をかたちづくった『火山灰地』の21世紀版ではないかと思ったこともある。彼の作風はリアリズム劇をも手中にしていた。斎藤憐は演出家・佐藤信という最高のパートナーを得て、この快作を生み出したのだ。上演母体は俳優座である。

 わたしは斎藤憐の長い劇作家人生の中で、節目になったのは、結城人形座だったのではないかと考えている。わたしが斎藤作品を最初に観たのが、古典と前衛を出会わせるこの人形一座だった(『河原ものがたり』)。最後に観た舞台もこの一座だったのは、奇しき縁である。

 『乱歩・白昼夢』は江戸川乱歩の四つの短編小説を組み合わせた一種のオムニバス劇である。『芋虫』『屋根裏の散歩者』『一人二役』『人でなしの恋』はいずれも「人形」が主題化されている。

例えば『芋虫』では、両手両足を戦火で失った二等兵の物語だが、砲撃音とともに右手、左手、そして足が順次吹っ飛ぶシーンは、人形劇でなければありえないリアルな表現だ。変装することで妻の恋心を試す『一人二役』は等身大の人間ではうそ臭くなるところを、人形だからこそ、かえってそのフィクション性が説得力を持った。人形一座の「八百屋お七」の人形に実在の人間以上に懸想してしまう夫を描いた『人でなしの恋』は、結城座に実際通った経験のある乱歩自身の願望が重ねられている。結城座は江戸時代に創設された四百年の歴史を持つ由緒ある一座なのだ。

 これらの小説の舞台となっているのは、1930年代の東京である。人口が東京など大都市に集中するにつれて、アパートという集合住宅が誕生する。個室が生まれてくるにつれて、アパートの住人から「屋根裏」を徘徊する人物が出現する。それが『屋根裏の散歩者』だ。乱歩が描いた小説群を浅草の木馬館で上演するとしたこの劇の設定は、演劇のからくり性をあますところなく伝えるものとなった。

 この舞台は、アニメーション作家兼デザイナー、宇野亜喜良に負うところが大きい。『乱歩・白昼夢』は副題に「人形と写し絵による」とあるが、四方の壁面に映された幻灯はドラマを補強するばかりか、それ自体が一つの表現になっている。例えば、「浅草の街並。十二階。浅草の歓楽街の人々。」といったト書きの一行は、舞台では宇野の表現として効いている。

 一般に戯曲は台詞とト書きで構成され、それは文学の一種だと考えられている。けれどもこのト書きは、舞台を構成する重要な要素であり、演出のノートに他ならない。作者自身演出も兼ねるこの舞台では、ト書きは自分自身へのメモでもあったのだ。

 台本には詩も書き付けられている。この詩は同時に詞でもあり、音楽を担当した黒色すみれの歌詞になっている。さらにはサウンドエフェクト、つまり音響効果まで書き込まれている。この舞台が単なる台詞劇にとどまらず、多様な要素が詰まったトータルな劇であることが了解できるだろう。ここには文学としての戯曲を超えた、多重な機能が満載されたテクストの空間が広がっているのだ。劇作家・斎藤憐賀たどり着いた成熟の地点がここにある。

 冒頭で、「『上海バンスキング』で知られる劇作家」と記したが、1979年に初演されたこの舞台はやはり斎藤憐の最高傑作だろう。マドンナ役の主演・吉田日出子、若く魅力的だった余貴美子、渋い味を出す笹野高史と串田を加えた四人のアンサンブルは忘れがたいものがあった。

 「偲ぶ会」もやはりこの作品で締め括られた。「座・高円寺」の舞台下手からトランペットを持った串田和美が登場する。彼は壇上に掲げられた遺影に深々と一礼した後、やおら名曲「ウエルカム上海」を吹き出した。

『上海バンスキング』は1930年代の上海に、食い詰めたジャズメンたちの行く当てのない博打のような生活を描いた作品だ。それは戦中の日本人の荒廃した心境を的確に映し出していた。彼らジャズメンたちは暗い戦争へ向かって奈落を突き進む日本社会を暗示するように、その場限りのジャズ演奏に興じる。ラストシーン、廃人となった主人公の周辺には、かつての仲間たちが楽器片手に登場し、即興で演奏する。やるせない気持ちとやけっぱちの心情が何とも滑稽で潔い。この名シーンが年を重ねた初演メンバーで見事に再現されたのである。

 それは故人への深い友情の籠もった哀悼でもあったと同時に、震災に見舞われた日本へ斎藤憐からおくられた鎮魂歌のようにも聞こえた。


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