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『ブラック・ジャック創作(秘)話 〜手塚治虫の仕事場から〜』原作・宮崎克 漫画・吉本浩二(秋田書店)

ブラック・ジャック創作(秘)話 〜手塚治虫の仕事場から〜

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 かつて七日間で世界を灼きつくしたと伝えられる巨神兵のように、莫大なエネルギーを以て創作に打ち込む天才。誰もついていけない、いや、一緒にいるだけでうっかり一緒に灼かれてしまいそうな危険な存在。そんな人を私はモンスターと呼んで、密かにコレクションしています。書評空間ではすでにそんなモンスターのひとり、宮崎駿監督の暴走っぷりを書いた(それが主題の本ではないのですが)「ジブリの哲学」をご紹介させていただきましたが、今回はさらにすごいモンスターを紹介させていただきます。漫画の神様、手塚治虫先生です。

 手塚治虫を神格化して描いた漫画といえば、藤子不二雄Aによる自伝的漫画「漫画道」でしょう。故郷の富山県でせっせと漫画を投稿していた少年時代の藤子不二雄コンビは、自信作をひっさげて上京を果たします。しかし憧れの手塚治虫に邂逅を果たした彼らは、手塚が自らボツにした膨大な枚数の原稿を目にして雷に打たれたような衝撃を受けます。天才があれほど努力しているのだから、自分たちはもっと努力しなければならない。帰りの汽車の中で、彼らが自信作をビリビリに破いての窓から撒くシーンは「漫画道」の前半のクライマックスです。まさに神にふさわしいエピソード。「漫画道」で描かれる手塚の頭には、しばしば後光が(!)さしており、当時の新人漫画家がどれほど彼を高く仰ぎ見ていたかということがわかるのです。

 しかしその一方で我々読者は、手塚の、神らしからぬ不穏な噂をしばしば耳にすることがあります。梶原一騎の「巨人の星」が大ヒットした時には「この漫画のどこが面白いんだ、教えてくれ」とスタッフに訴えたとか、水木しげるの「墓場の鬼太郎」に衝撃を受けて階段から落ちたとか、手塚が才能ある新人作家たちに尋常ならざる敵愾心を持っていたらしいというのは、すでに有名な話です。自分を崇拝していた藤子不二雄に対してでさえ、その原稿を初めて見た時には「とんでもない子達が現れた」という焦りを感じたと自ら語っているほどです。

「自分の漫画は面白くないのでは」「他の新人に追い抜かれるのでは」という恐怖に、終生脅え続けていた手塚。その恐怖が、彼を、人間の限界を超えた量の創作活動と異常なまでのこだわりへと追い立てていたのでしょう。私はそんな手塚治虫を、自分のモンスター・コレクションのひとつに加えたいと、ずっと思い続けてきました。

 そんな折、書店でこの本を見つけた私は、迷いに迷った挙げ句に購入に踏み切りました。なぜ迷ったのか。「ブラック・ジャック創作(秘)話」というタイトルと、ノスタルジックな装丁から「また、手塚治虫神格化のエピソード満載なんじゃないの」と予想したからです。しかしその予想はすぐに裏切られました。見事なまでのモンスター本だったのです!

 物語の語り手になるのは、編集者、アシスタント、アニメ制作のスタッフたち。ヒット作は途絶え、アニメは経営的に失敗。当時、どん底にいた手塚が起死回生を賭けて「ブラック・ジャック」の連載を始め、復活を果たすまでの舞台裏が描かれています。

 しかし、それを単なる感動ストーリーに終わらせないのが手塚治虫です。この漫画には神様など登場しません。首からタオルをかけたランニングシャツ姿で、無精髭を生やした顔に汗をたらたら垂らし、インクまみれになりながら、周囲の人間を振り回したいだけ振り回し、心配をかけまくりながら仕事をする、ひとりの中年のオッサンが主役です。「す、すごい」でも「絶対一緒に働きたくない」それが読み終わった私の感想です。その場に居合わせた人は大変だったでしょう。読者も疲れます。読んでいるだけで寿命が吸い取られていくようです。

 今回は引用しません。どんなエピソードが描かれているのか、直接読んでみてください。そしてあなたも是非、寿命を縮めてください。 

 余談ですが、この漫画、今年の夏頃から書店の平台の隅にひっそりと置かれていました。興味を持ちはじめてから、しばらく観察していたのですが、入れ替わりが激しい平台に、三ヶ月たっても半年近くたっても、しつこく細々と生き残っていました。それで私もとうとう買うことにしたのですが、同じような読者がたくさんいたようです。なんと「このマンガがすごい!2012」オトコ編第1位に輝いてしまいました。

 なんでも1番でなければ気がすまなかった手塚治虫。死してなお、21世紀の漫画家たちを押しのけて第1位を奪い取り、平台に山のように積まれることになったこの漫画の表紙を見るたび、私は「やっぱり一緒に働きたくないオッサンだな」と思うのです。

 


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