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『メモリー・キーパーの娘』キム・エドワーズ(NHK出版)

メモリー・キーパーの娘

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「見逃した風景をとどめるために」


 数年前、アメリカ・カリフォルニア州に住む友人から子供が生まれたという知らせを受けた。そしてその愛くるしい男の子が、ダウン症であるということも。その知らせをうけたわたしは、無事に彼女の出産が終わったことを喜びながらも、どのような言葉をかければよいのか、正直なところ戸惑いを感じていた。ただなんとなく直感的に、「ああ、この子は親を選んできたんだな」と思ったことを憶えている。たしか彼女にもそう伝えたはずだ。

 しばらくして、その友人からある印象的なエッセイが掲載されているURLが送られてきた。「オランダへようこそ」というタイトルのこの短い文章は、障害をもった子供を育てることについて尋ねられることが多かったエミリー・パール・キングスレーという女性が、ひとつの解答として書いたものだった。

 

赤ちゃんができるということは、休暇に行く最高に楽しい旅行を計画することに似ています——たとえばイタリア旅行のような。あなたはガイドブックをたくさん買い込み、すてきな計画を立てることでしょう。コロッセオミケランジェロダビデ像ヴェニスのゴンドラ。使えると便利なイタリア語のフレーズを憶えたりもするでしょう。すべてがわくわくするようなことでいっぱいです。

 何ヶ月か待ちに待って、やっとその日がやってきました。あなたは荷物をまとめ、そして旅立ちます。数時間後、飛行機は着陸しました。客室乗務員がやってきて、こう告げました。「オランダへようこそ」

 「オランダ?!?」あなたは声をあげます。「オランダってどういうこと? わたしはイタリア旅行に申し込んだのよ! オランダに着いているはずでしょう。だってわたしはこれまでずっとイタリアに行くのを夢見ていたのよ」

 しかしながら飛行機のフライトプランに変更があり、オランダに着陸したのでした。そしてあなたはそこに滞在しなくてはいけません。(拙訳)

 キングスレーはこう続ける。そこはただ場所が違うだけなのだと。イタリアよりはちょっとペースもゆっくりだし、イタリアほどの派手さはないけれども、しかし呼吸を整えてまわりの風景をみわたせば、風車やチューリップ、そしてレンブラントの絵などが見えてくるはずだ、と。イタリアへ行った友人の土産話を聞いて、イタリアへ行けなかったことを嘆くこともあるだろう。そしてその痛みは決して消え去ることはないだろうが、しかし嘆き悲しむことで一生を終えてしまっては、逃してしまう楽しさや美しさがあるのだ、と。

 わたしの友人は、おそらく彼女が着いた場所の風景を楽しんでいるのだと思う。そして楽しむためにさまざまな努力を積み重ねているはずだ。しかし、もし自分が着いた場所に満足することなく、それこそ「嘆き続ける」場合、人はどのような行動をとるのだろうか。あるいは、自分が着いてしまった場所について一切知らされずに、行きたかった場所にいるのだと思い込んでいる(思い込まされている)としたら…。

 キム・エドワーズによる小説『メモリーキーパーの娘』は、まさに「違った場所」に到着してしまったことを受け入れられなかったがゆえに悩み壊れていく一家族と、その家族に代わってみずから「違った場所」に赴くことを受け入れたひとりの女性の物語を描いている。

 2005年にアメリカで出版された本作は、本国ではすでにLifetimeというケーブルテレビ局によってテレビ映画化されているほどの人気を誇っている作品である。

 1964年のアメリカ・ケンタッキー州。とある夫婦が出産の日を迎えるところから物語は始まる。整形外科医であるデイヴィッドは、とつぜん陣痛が始まった妻ノラを病院に運び、自ら赤ん坊を取り上げることになるのだが、そこで彼は生まれてきた自分たちの子供が男女の双子であったこと、そしてそのうちの女の子がダウン症であることを知るのだった。デイヴィッドは、そこで重大な決断をすることになる。それは、妻には産まれてきた女の子は死んでしまったと告げること、そしてダウン症をもって産まれてきたその子供を、看護士のキャロラインに頼んで施設に預けるということだった。

 上に紹介したキングスレーのたとえを用いるならば、デイヴィッドはオランダに着いたことを、妻と産まれてきた息子に隠し、自分たちはイタリアに着いたのだと思わせることを決意したといえるだろう。デイヴィッドの嘘を知る唯一の人物であるキャロラインは、ダウン症の女の子を施設に預けずに、自ら育てる決断をする。本作では、嘘の上に成り立つデイヴィッドの家族と、ダウン症の子供を育てるために奮闘するキャロラインの人生が、25年にわたって描かれることになる。

 いうなれば、当初の目的とは違った場所の違った風景を味わう勇気のなかったデイヴィッドは、この嘘の代償を生涯にわたって支払うことになる。幸せだった夫婦は、「亡くした」娘にたいする喪失感から、埋めることができない溝がうまれてしまう。ここでは、喪失感を抱き続ける妻ノラと、罪悪感にさいなまされながらも自らの行動を正当化しようとするデイヴィッド、そして両親のぎこちなさを感じている息子ポールとが、永遠に理解し合うことない哀しさが、読者の胸をうつ。

 

<愛している。本当に愛している。だから嘘をついた> とたんに、ふたりのあいだのわずか数ミリの距離が、ひと息で縮められるほどだった距離が、ぱっくりと割れてみるみる深く裂けていき、ついには底なしの断崖と化して、彼 はその淵に経っていた。(157頁)

 デイヴィッドの嘘は、もうひとりの女性の人生をも左右する。デイヴィッドに恋心を寄せていた看護士のキャロラインは、デイヴィッドが「捨てた」女の子フィービを自ら育てることを決意し、誰にも告げずに町をあとにする。過去の人生を一切捨ててフィービとともに、新しい生活を始めるが、それは決して平易なものではない。

「まあ、お気の毒に! こんなことになったらどうしよう、って私がいつもうなされる悪夢が、あなたにとっては現実なのね」とか、一度など、「すくなくとも、そう長くは生きられない——それがせめてもの救いね」と言われたこともある。礼儀知らずで、残酷で……とにかく、その手の言葉が長年キャロラインの心の生傷に塩を塗りこんできた。(217頁)

 キャロラインが感じる周囲の無理解のみならず、フィービの就学についての教育委員会との闘い、思春期にさしかかったフィービの異性に対する興味に関する不安など、おそらく現在も残る問題が描かれている。と同時に、いわば「違った風景」のすばらしさも、キャロラインは経験する。成長とともにフィービがもたらす喜びが、重いテーマを持つ本作品の中で救いとなっている点が、読みどころのひとつだろう。

 さて、タイトルにもなっている「メモリー・キーパー」は、本作品のキーワードになっている。それは、デイヴィッドの誕生日プレゼントとして、ノラが買ったカメラの箱に書いてあったキャッチフレーズだった。記憶をとどめること——だが、デイヴィッドがとどめるべき記憶とはなんなのか? デイヴィッドはいったいどのような記憶や風景をとどめたのか? そしてそれは家族にとってどのような意味があったのか、あるいはなかったのか? デイヴィッドが隠し続けた「到着地」は、最終的にノラやポール、キャロラインやフィービにどのように明かされるのか。

 内容としては重くるしく、読む前に多少の不安もあったのだが(読んでから落ち込んだらどうしようという不安)、そうした不安を払拭するような物語そのものの面白さが光る作品である。それぞれの登場人物たちは、どのような「風景」を見ているのだろうか、と思わず引き込まれてしまう。デイヴィッドが見逃した「風景」はいったいなんだったのか。本作品を読み終わる頃には、読者はそれぞれにその「風景」を見いだしていることだろう。


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