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プロの読み手による書評ブログ

『貧しい音楽』大谷能生(月曜社)

貧しい音楽

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「複製技術を介した音楽体験を考察する」

私は本書にインタビューが載っているミュージシャンをひとりも知らず、
しかもテクノやアブストラクト・ヒップポップやミュジーク・コンクレートなるジャンルにもうとい。

書評するのははなはだおこがましいのだが、

それでもなにがしか書いてみたいと思ったのは、

「複製品」におおわれた私たちの日常について

思考が広がっていく喜びがあったからである。

現代生活の中で、身体が刻印された生な芸術品を数え上げるのはむずかしい。レコード、写真、映画など、繰り返し鑑賞できる複製品に取り囲まれている。

本書はそうした状況を前提に音楽を論考したものだ。

複製芸術とオリジナルのちがいを問うのではなく、

聴くことをも含めた音楽的体験を問題にしている。

私たちは二重化された「死の空間」に身を映しながら音楽を享受している、と著者は言う。

音がスコアになったときに身体と切れ、

録音されたときにもう一度切れる。

「ふたつの「死の空間」のあいだを多様に乱反射していく音のイメージの広がりこそ、二〇世紀音楽の豊穰さ」だと語る。

語り言葉が文字になったときの「死」と、

それが印刷されたときの「死」、

あるいは人の姿がフィルムにとどめられたときの「死」と、

プリントになって可視化されたときの「死」というふうに、

他のジャンルに置き換えてみるとわかりやすいかもしれない。

このように、複製作品はいくつもの「死」を経過して私たちの目の前に現われ、「見」たり「聴」いたりする行為を通してその「死」が行く通りにもよみがえるわけだ。

「生」そのものを直接享受していた時代と比べると、

記憶の回路が複雑化するのは明らかであり、

「乱反射」という表現は、

そうした多様化した記憶の関係性を言っているのだろう。

写真について考えることの多い私には、

ホロコーストを録音するために/耳のために夜を用意する」

という聴覚イメージと視覚イメージを比較した最終章が、

とりわけ興味深かった。

聴覚のイメージは音を発している対象そのものから作られるが、

視覚のイメージは対象物自体ではなく、

光源とその反射物との組み合せによって生成される。

だから視覚イメージはスクリーンに投影してまわりとシェアすることが可能でも、

「無数の太陽につねに晒されてる」のも同然の聴覚イメージにはそれができない。

また聴覚は瞼を閉じることでイメージを切断できるが、

聴覚にはそうではなく、

生きているかぎり音が聞こえ、

その音の震源にむかって意識が作動しつづける。

「聴覚イメージにはそれが変形されるための夜が用意されておらず、鼓膜にはそれを閉ざすための瞼もない」。

この言葉は、視覚イメージにおける想像のあり方と、

聴覚イメージにおける想像のあり方とが原理的にちがうことを、

強く印象づける。

章タイトルの「耳のために夜を用意する」とは、

このような違いに対して繊細でありたいという著者の意思表明だ。

聴覚イメージのモンタージュは、聴覚ほどたやすくないゆえに、

多大な想像力を必要とする作業なのである。

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