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『星のしるし』柴崎友香(文藝春秋)

星のしるし

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「写真集のような小説、または新しい記録文学

『星のしるし』は原稿用紙にして250枚足らずの量で、レイアウトもゆったり組まれていて、目の負担も少なく、すらすらと読めそうな感じなのだが、読みはじめてみると意外にも時間がかかる。描写がとても緻密で繊細なのだ。読書というのは、文字の連なりから情景や感覚を頭の中に立ち上げる行為で、だから正確にそれをやろうとすると、結構時間がかかるし、脳の負担も大きい。


もっとも筋をたどっていくことが、そのまま読書行為となるような小説もある。そういう場合は文字を追っていけばドラマが展開され、それに誘われてどんどんページがめくれ、そのスポーティーな感覚が読者のカタルシスになる。柴崎友香の小説ではドラマチックなことはほとど起きず、早く読んでしまうと、文字を追っただけで何も残らない。読者が能動的になることを求める小説だと言える。

主人公の「わたし」は、今年三十になるOLで、ワンルームマンションに独り暮らしをしている。何年か前に同じ会社に勤めていた男と結婚寸前までいったが、ためらいを覚えて別れ、会社も変わった。いまは朝陽というボーイフレンドがいて、週末はたいがい彼のところで過ごしている。その家にはいろんな人が出入りしていて、現在はカツオという超能力を自認する若い学生が居候している。「わたし」の親友の皆子も、また面倒見のいいところを発揮して印象に残るが、はやりいちばん強烈なのは、図々しくて妙にハイなこのカツオという男だ。

とはいえ、上記のような事実関係は小説を読むにつれて少しずつわかってくることで、まとめて説明する個所があるわけではない。冒頭の場面は正月のファミリーレストランで、出てくるのはカツオと皆子と「わたし」の三人である。朝陽の帰省中に、皆子と高校時代の同級生を訪ねたら、カツオもついてきた。帰り道にカツオがお腹が空いたと言うので、ファミリーレストランに寄る。

ここで「わたし」の携帯電話が鳴り、この小説全体に通奏低音のように響き続ける出来事が起きる。介護施設に入っていた「わたし」の父方の祖父が亡くなった知らせが入るのだ。痴呆で施設に入っていて、会いに行くこともまれだったが、亡くなったとたんに、存在すら忘れていた祖父が水面に浮上して「わたし」の心を揺らす。

順風満帆の人生であれば、そうはならなかったかもしれない。仕事も結婚も曖昧で、これという確信のない人生であるゆえに、祖父の死をきっかけに現実をつなぎとめる綱が緩むのだ。こたつに入っているカツオに「わたし」は、祖父の死を巡る感情の動きをこんなふうに話す。

「……死ぬまでは一年に何回か意識することあるかないかみたいな感じやってんけど、今はしょっちゅう思い出す、っていうても葬式とか法事とかあるしうちに遺影やら位牌やらがあるせいもあるねんけど。今まで普段は忘れてて、それっておらへんも同然やん、ひどい言い方やけど。ほんで死んで会われへんようになっても、それまでとなにも変わらへんし、かえって考えるようになったから、おるときはおらへんかったのに、おらんようにんなったらおるっていうか」

他愛もないつぶやきが、大阪弁のゆったりしたリズムによって切実な自問に変わる。とりわけ最後のせりふは味わい深く、この部分を「いるときはいなかったのに、いないようになったらいるっていうか」と標準語に置き換えてしまうと、平たくなってニュアンスが消える。よく言えばおっとり、悪く言えばぼんやりと生きている「わたし」の日常感覚が、批判的ではなく、リアルなものとして読者の心に広がっていく重要な個所だ。

一万五千円も出してヒーリングにいったり、占いにいったり、「わたし」はいまどきの女性らしく、いろんなものを試し、霊的な世界に思いをはせる。だが、頭のどこかでそれによって何かが変わるわけではないのを知っているし、はまりもしない。そう、この小説にドラマチックな要素がないのは、「わたし」のこの遠くからモノを眺めるような淡々とした視線のためだ。ドラマをドラマとして受け止めずに、むしろ「ドラマ」と呼ばれるものを解体しようとする意識が強い。

もう一度冒頭にもどってみよう。ファミリーレストランの駐車場に車を停めたところで、帰省先の朝陽から電話がかかってきて、皆子とカツオは先に降り、「わたし」ひとりが車内に残って話していると、道路のむこうのアパートのベランダに若い男女がいて、その女のほうが鉄柵の上に立ち上がろうとするのが目に留まる。耳は電話の内容を追いながらも、視線は百メートル以上離れている場所で起きていることを見つめている。「わたし」と外界との関係は、こんなふうに見えたものによって自分を観察する作業で成り立っているのだ。

視覚描写が意味を伝えたり、筋を補助するためではなく、無意識が表出したり、意識が揺らいだりするのを記述しているのは、柴崎友香の小説の特徴であるように思われる。私は文章をいちいち映像に置き換えて読む癖があるために、このベランダのシーンもヴィジュアルに浮かんでくるのだが、その映像は「映画」ではなく「写真」に近い。

写真と映画のちがいは時間にある。映画では、見る側が作り手の時間に身を委ねるが、写真においては、見る者がそれを決める。つまり写真はいくら長く見ていても構わないのだ。おなじように小説では、ひとつの記述にどのくらい留まるかは読み手の自由であり、その時間の自在さと関係性が、写真との親和性をもたらす。

先に引用したせりふでわかるように、「わたし」は自分の心の動きを見つめているが、自意識がテーマではないし、それと格闘している様子もない。むしろ自意識すらも客観視しようとする視線があって、それもまた「写真的」と感じさせる要因になっているのかもしれない。写真は自意識を離れて、現実の側にでていくことで成立するものだから。

どんなタイプの写真も記録としての特性をもっているが、この小説も、自分の内部でおこることを外化して記述しようとする意志に、写真の記録性と相通じるものがある。つまり五十年後にこの小説を読んだ者は、2008年に若者たちが何を感じ、何を考えていたかを感覚することができるだろう。どんな時代の、どんな事象も受け止めていこうとする作家の姿勢が示されている。だからこの作品を「写真集のような小説」と言うことができるし、「新しい記録文学」と言ってもいいと思う。


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