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『三四郎』夏目漱石(岩波文庫)

三四郎

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未罪への遡及

 診察室で出会う人たちが読書家と知ると、「今、何を読んでいるの?」と尋ねないではいられない。先日、ある青年に恒例の質問をしたら、「『国富論』と『論語』を読んでいます」という返事が返ってきた。彼は、古今東西の名作とされる思想・哲学書を片端から読んでいくのを習慣とする。「話題になった時、知らなかったら格好悪いじゃないですか。『ああ、あれね』って言っておきたいわけですよ」と正直な青年は上目遣いに語る。

 この対話に遡ること半年余、彼は夏目漱石の『文学論』を読んでいる。青年は、「僕は夏目漱石の小説は読んでいませんし、どんな人生を送ったのかも知りませんが、あの文学論を読む限り、あれじゃあ病気になります。精神が持ちません」と言う。そこまで言われたら、職業的意地が働いて、わたしも読まずにはいられない。

 思い起こせば、それが漱石の水脈への第一歩だった。しばらくして、知人との会話のなかで「現代日本の開化」が引き合いに出された。これも早速に読んでみた。グールドが『草枕』(英訳では“Detachment”となるらしい)を座右の書としていたとのネタまで耳に届いて、そぞろになって読み返したりもした。そのような具合で、漱石はわたしの公私の生活を通じて、無闇に出没するようになった。

 駄目押しの漱石は、先月のことだ。同僚の医者が忽然と『三四郎』を語りだした。「上京する電車のなかで、三四郎が男に出会いますでしょ。そこでの或る台詞をわたしはずっと三四郎の台詞と思っていたのですが、司馬遼太郎がそうでないようなことを書いているんですよ」。いきなりの重箱の隅であった。入念というか、執念というか、彼は後日『三四郎』の掲載された明治41年の東京朝日新聞のコピーまで持参してきた。「夏目漱石は『三四郎』が頂点で、あとは読む価値がありません」と意見する同僚の一念に気圧されて、わたしはついに「頂点」たる『三四郎』の品定めに取りかかった。

 深い厭世観と生への意志との相克は、『三四郎』以降の漱石の作品で重たさを増していく。江藤淳によれば、「漱石は我執と言うか、エゴイズム、あるいはそれに由来する罪の問題を一貫したテーマに掲げて『それから』以後『こころ』までの作品を書いてきた」が、『三四郎』では、我執や罪の問題が顕在化することはない。我執の培養土たる自我も未だ熟成に遠く、罪にいたっては犯行以前の青年が三四郎である。

 上京した三四郎は三つの世界に住むようになる。母親に集約される懐かしいが寝呆けた世界、火宅を逃れ象牙の塔で太平を生きる学者の世界、そして開化の電燈のもと歓声をあげる美しい女性の世界である。三四郎はこれらを出入りしながら安住の世界を求めて逡巡するが、漱石はその彷徨を鳥瞰し、三つの世界を体現する登場人物をそれぞれに配するという距離をとっている。三分類はほとんど戯画的ですらあるが、それがこの小説に講談的テンポを与えて、読みやすさを添えている。しかも、視点はあくまで若い三四郎の眼に置かれ、配役は三四郎の眼から描かれるため、漱石特有の高踏的俯瞰色は薄まり、結果として、読者に適度の感情移入を許すような具合になっている。

 それにしても、第三の世界、つまりは美禰子に体現される世界については、舌足らずの感を否めない。「謎の女性」と形容されるようだが、この存在は腹立たしくもある。その極みは感情問題を借金問題にすり替えてしまう美禰子の手口で、それに左程の立腹を示さない三四郎も煮え切らない。借金は漱石の常套で、多くの作品に顔を出すが、『三四郎』の場合、与次郎に貸して戻らぬ三四郎の20円を、美禰子から三四郎への30円の贈与に変換してしまうというのが彼女の手口である。

 カラクリの詳細は本書で確認していただくとして、「この女は卑怯だ」というのがわたしの素朴な感想である。眺めるには美しく、近寄ると碌でもない。そもそも、冒頭に現われる車中の女性との一泊逸話にしても、「度胸のない方ですね」と嫌味を言われる始末で、三四郎は、結局のところ、女性に(限らないが)近寄らない。挙句に、「ストレイシープ」などとぼやいている。

 広田先生との会話(それこそがわたしの同僚の執念なのだが)の件で、三四郎は「熊本に居た時の自分は非常に卑怯であったと悟った」と言う。これこそは謎の台詞で、この文脈でどこがどうして卑怯なのかと入試問題などに出されたら、わたしは落第確実だ。ともあれ、卑怯なのは女たちだろうとわたしなどは短絡してしまう。そして、他方の三四郎は、仕掛けてくる女性陣を袖にするという卑怯をあたかも無自覚であるかのように繰り返す。

 与次郎の借金踏み倒しは粗忽さと図々しさの権化だが、美禰子の手口は隠微な策略である。その策略に対して、三四郎はただ金の始末(貸し借りの帳消し)をしたに過ぎない。隠微さは宙に浮いたままだ。そして、「ストレイシープ」なるぼやきが落ちときている。つまり、女性は曖昧なまま放置される。

 そうして見ると、漱石の描く女性は『三四郎』以前も以後も、雲を掴むようであり、実態が紗幕に掛かっている。「間三尺置いて」も輪郭がぼやけている。三浦雅士が『漱石―母に愛されなかった子―』(岩波新書)によって、女性問題(?)に焦点を当てたのも無理からぬことだ。ちなみに、三浦氏の視点から考えると、罪とは生い立ちに遡ることになる。とっても精神分析的だ。

 『吾輩は猫である』から『明暗』にいたる漱石の全作品は、わずか11年の間に書かれている。低徊趣味なる造語まで用意して、高踏的姿勢(detachment)を示した漱石であったが、ある人々にとっては、何尺であろうと離れるほどに夏目漱石なる人物とその思索の軌跡が気になってくる。執筆の総体をひと連なりの作品として読まなくては気が済まなくなる。評論や随筆、講演など資料は少なくない。妻や孫娘の「実話本」までが巷にはある。

 論より証拠で、漱石精神病理学・病跡学の研究対象の定番となってきた。漱石うつ病だったのか、統合失調症気質だったのか、境界性人格障害だったのかという分類に終始するのでは詰らないが、多くの専門家の興味をそそってきたのは無理もない。

 『三四郎』は、罪以前の奔放さを未だ宿した青年を描いた最後の小説であって、41歳の漱石には『草枕』や『虞美人草』といった「重たい」作品の後、『門』・『行人』・『こころ』の系譜へと向かう前に、未罪に立ち戻る必然があったのだろう。したがって、漱石のテーマであると言われる我執と罪に関わりたい読者も関わりたくない読者も無難に読書できる。

 哲学・思想書を読み漁る青年も、三四郎の言葉尻に半世紀近くこだわる同僚も、卑怯な女に頓着するわたしも、それぞれの取っ掛かりを胸に漱石を読む。漱石作品というパズルのどのピースを贔屓にするにしても、『三四郎』が独立したピースとして堪能できるのは言うまでもない。わたしもこれでようやく同僚に「ああ、あれね」と言うことができる。


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