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『斬進快楽写真家』金村修(同友館)

斬進快楽写真家

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「欧米とは180度ちがう写真家のテーゼ」

最初に金村修の写真に注目したのはヨーロッパで、東京綜合写真専門学校在学中の1992年にオランダのロッテルダムのフォト・ビエンナーレに選出、96年にはニューヨーク近代美術館の「New Photography 12」展で「世界の注目される6人の写真家」に選ばれるなど、欧米での評価が先だった。

なるほどと思った。彼が撮るのは、放置自転車や看板や幟の氾濫する駅前や、空に黒い電線が行き交う雑居ビル街である。急いで通ろうとすると自転車に足をひっかけ、人ごみを抜けようとして他人にぶつかる、そんな見慣れた場所がモノクロで撮られている。日本人にはうんざりな光景だが、欧米人は日本をこのような形で見せられ新鮮だったのではないだろうか。

もっとも、彼の写真はベタなリアルさを追求してはいない。写真から伝わってくるのはリズムと量感、さまざまなフォルムの重なり、それが作り出すパースペクティブ。風景がフレームの中で圧縮されて密度が高まり、うなりを上げているかのようだ。

金村はタブロイド紙をキオスクに配達するアルバイトの空き時間に写真を撮りはじめた。いまもその仕事をつづけているらしい。彼の写真には、そうした作業を持続する肉体が感受する街が写っている。駅構内から外に出たときに目にする光景、いいとか悪いとかの判断以前に目に飛び込んでくる風景だ。おなじアルバイトでもデスクワークだったなら、こうは撮れないだろう。

97年には日本写真家協会新人賞、2000年には史上2番目の若さで土門拳賞受賞。華々しい経歴だが、雑誌で仕事をしていないので一般的にはあまり知られていないかもしれない。写真学校の講師をしつつ、現在も配達の仕事をつづけているのは、生活のためなのか、写真のためなのかわからないが、彼の写真には撮影のために準備された肉体が刻印されているし、その肉体が簡単には切り替えられないことも感じさせる。

そんな頑固な肉体をもった写真家が、自らの写真観を語った本である。暑さにだれた脳を刺激するパンチ力がある。以前『日本カメラ』に「金村修に怒られたい」という人気連載があった。怒られたい読者が写真を投稿し、彼がそれを見てゲキを飛ばすのだが、本書も同じで、強度のあるリズムカルな言葉がポンポン飛び出す。

「自分は言いたいことがあるから、表現したいことを持っているからカメラを握るのではない」と言う。ではどうして? 彼はうまい言葉でそれを表現する。

「言いたいことなんてないんだけれど口は動かしたい」。

まるでランチタイムのオバサン連中を指しているようだが、彼をつき動かしているのが理念ではなく、生理的衝動であることが伝わってくる。若い頃はミュージシャンを目指していたが、20代半ばまで写真学校に入り、エレキギターをカメラに持ち替えた。「写真は動機が薄弱でも取れるのがいいところ」「写真は自分の内面を問わなくてもいいからすごく健全な芸術だ」など、シャッターを押せば撮れる写真の特性が小気味よく語られる。

しかし、押せば撮れる写真は、はじめるにはいいが、つづけるのがむずかしい。写真の最大の困難さはここにあると、私はつね日ごろ思っている。簡単に出来ることは飽きるのも早いし、やる気を維持しにくい。生活の手段ならそれを理由にがんばることも出来るが、金村の場合は写真が目的化しており、撮らなくても生活はしていける。しかも彼は被写体を変えず、ずっと東京とその周辺の街だけを撮り続けているのだから、相当に粘り強くなくてはだめだ。

いい写真が撮れたり、才能があるから写真をつづけるのではない。「今さら引き返せないから」やっているのだと言う。この言葉にもうならされた。多くの人が止めて引き返す。蓄積が物を言うジャンルでないから、止めるのにも未練がない。そんな写真を自分の才能を信じたりするのではなく、「今さら引き返せないから」とつづける。説明不可能なリアリティーがある。

「しつこいっていうのは写真家になるための一つの資質だろう。同じことをいつまでやっても飽きない人が多い。ライフワークっていうよりもただしつこいっていう感じ。それも被写体の深層に迫るっていうんじゃなくてずうっと表面にこだわり続ける」

写真はなにかを深めるためにあるのではないということだ。だが日々、同じことを繰り返せば、当然ながらマンネリになったり行き詰まったりする。それについては、こう切り返す。

「行き詰まったらその行き詰まりを見せるのが写真家であって、何でも撮れるなんてつまらない可能性を見せることなんかじゃない。行き詰まったり、つまらなかったりの何が悪いのかと思う。無限の可能性を秘めているなんて思われる方が変だし、つねに新しくなくちゃいけないって、コマーシャルの世界ならともかく、そういう意識ってすごく強迫神経症的だと思う」

この言葉は、「近代化路線」以降の時代を象徴する言葉のようにも聞こえないだろうか。つねに新しいもの、ほかの人がやってないことを目指して邁進し、行き着くところまで行ってしまったのが、いまの時代である。もう同じ発想では生きていけない。ありあまる物や情報に生命力を奪われずにいかに生き延びるか、現代の課題はこれに尽きるように思う。

金村はテーマで写真を撮ることをしない。場当たり的に、出たとこ勝負で撮る。この撮り方は欧米の傾向とは180度ちがう。彼らはテーマを設定し、それを実現する道具としてカメラを使う。写真家はあくまでもカメラの背後で操作する者なのだ。だが、金村はそうではない。「自分はカメラの部品のひとつと同じなのだ」と言う。

「自分は機械ではなく機械を動かす人間になりたいと思うなら、多分写真家には向いていない。自分のことが言いたい人間に写真は向かない。機械でありながら、機械を動かす存在であるという二項対立を矛盾なく引き受ける」

「理性的な判断や合理的な判断では写真家になれないだろう。理性的で合理的な人間なんて誰もいない」

カメラは世界を写し出すと同時に、人間の人間たる所以を暴き出すものだ、そんな信念がこの言葉には込められているようだ。欧米ではスナップショットは1970年代以降後退し、ニューカラーの時代に入ったが、日本では依然として大きな傾向を占めている。これは人間のとらえ方の違いから来ているような気がする。

欧米人にはカメラに使われてはいけないという感覚が強い。カメラが出はじめのときは仕方がないとしても、機械から自立することに人間の成熟の過程があるとする。物事に意志的にむかう人間像が厳然とあるのだ。

かたや、金村がとらえる人間像とは、「言いたいことがなくても口を動かしたい」生命体としての人間である。理性や合理を超えたところに立ち現れる人間の本性を見ようとしているのであり、彼の写真観もそれに沿って形成されている。

「日が出れば撮って、日が沈めばやめる。雨が降れば休み。自然の法則に身をまかせていればいいのだから、あんまり悩むこともない」

「自分の撮っているものがクズなのか宝の輝きなのかまるで分からずに撮るのが写真家だと思う」

このような言葉には、日本の写真家の感じ方がよく出ている。英語に翻訳したら通じるだろうか。たぶんだめだろう。だが通じさせようと努めることで、日本の写真はほかにない特徴を深めていくだろう。


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