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『私は写真機』片岡義男(岩波書店)

私は写真機

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「ホラーは曇りの日に起きる」

小説家で写真を撮る人はほかにもいるが、片岡義男ほど熱心にそれをおこない、かつ成果を写真集にまとめている人は少ないだろう。単著の写真集として10冊目に当たる本書のタイトルにまず目を惹かれる。『私は写真機』とある。

「写真機」という言葉を使うことは現代ではまれで、カメラと呼ぶのがふつうだが、それだとムービーカメラもビデオカメラも含んで広がりすぎである。「写真機」には写真を生む機械であるという明快なニュアンスがある。写真機が一般化しはじめた昭和30年代のにおいも好ましい。

冒頭には「なぜ写真機になるのか」という片岡の文章がある。

以下に最初の部分を引用してみよう。

「子供の頃、曇った日は苦手だった、嫌いだった、と言ってもいいのだが、曇りだろうが晴天だろうが、受けとめるほかないのだから、曇った日は嫌い、とは言わなかったように思う。だから、苦手だった、と言うほかない。曇った日は得意ではなかった。なぜ、そうだったのか。曇った日が、どのような理由で、苦手だったのか」

「受けとめるほかないのだから、曇った日は嫌い、とは言わなかったように思う」のところに ” 片岡義男らしさ ” が出ている。それを ” 写真機らしさ ” と言い換えてもいいだろう。写真機はレンズのとらえたものがすべて写ってしまう、凸ではなくて凹のメディアである。つまり、受け止める機械なのだ。曇りの日を「嫌い」ではなく「苦手」と表現する片岡義男と写真機は、だから似た者同士だ。

片岡の写真は、街を歩きながら撮るスナップと、物を撮ったものに大別できるが、今回は後者のほう、業界用語でいうところのブツ撮りの写真集だ。一般的にブツ撮りは光をコントロールできるスタジオなどの空間でおこなわれる。だが、これらの写真にスタジオは使われていないし、ライティングもほどこされていない。すべて戸外で、自然光で撮られている。黒いケント紙でホリゾントを作り、物を配置するという実にシンプルな方法だ。

ブツ撮りの対象となるのは物で、セットアップした状況で人を撮ってもブツ撮りとは言わない。だがこの写真集にはビリヤードの玉を突こうとする女の腕、たばこを挟んだ男の指先、ハイヒールに包まれた女のつま先のカットも混じっている。それらは印刷物の複写である。印刷物もブツだから、それを撮ればブツ撮りになるわけだ。

35ミリフィルムで撮られた横位置写真が、横長の版型の両ページにレイアウトされている。一点一点が見る者に「読む」ことを求めてくる。どの写真も美しいが、美しいだけではない小さなひっかかりがあるのだ。リアルに撮られただけなら通りすぎてしまうような謎が、随所に潜んでいる。

いまはないプロペラのTWA機が青空に飛んでいる写真では、主翼から後ろの機体の影が空に映っている。前部分にはこの影はないから、あれ?と思わずにいられない。二次元と三次元が同居しているような不思議さだ。

「エベレスト」という、粒状のペパミントガムをプラスチックケースとともに撮影した写真がある。額に入ったその写真の前で、写真とまったくおなじポジションでおなじものを撮っているのだ。これは私にとってめまいを引き起こす写真だ。撮れた写真を額に入れ、また実物を配して撮影し、その写真を再び額入りにして撮影する、という行為が延々と繰り返されるさまが妄想される。子供のころに見た千歳あめの袋がそうだった。千歳あめの袋を提げた子供が印刷されていて、その袋にはまた袋を提げた子供が立っていて、その子の手にした袋にはまた子どもがいて……。「いま」見たものが「過去」に送りこまれていく、その果てしのない恐怖。

スティック状のガムの徳用パックが中身とともに撮られている写真は、17枚入りとパックにあるが、ガムは16枚しか写ってない。ということは、17枚目は撮影者の口のなかなのか? 梅ガムを撮った写真も謎。「梅ume」と印刷した濃いピンクの紙がガムに巻かれているが、よく見ると印刷の細部がちがう。「サワー感up!」という文字が加えられているのもあるし、なにも文字がなかったり、梅の花の数がちがったりするものがある。ここには撮影者すら気付かなかった第三者の侵入を感じずにはいられない。

写真は見開きページの左右に配置されているため、ふたつのあいだには関連性が生まれる。とくに気になったのは終わりからふたつめの見開きだ。

右ページは雪の上に残された足跡、左ページはヌガーのような立方体形のお菓子だ。雪のほうは実写だが、ヌガーのほうはセットアップで、黒バックの前に何個も積み上げて撮っている。ヌガーは断面がすっぱりと切れていない。バリのようなものが残っていたり、いびつだったり、表面がでこぼこしたりしる。ふたつが同時に視界に入ると、足跡の穴とヌガーが凹と凸の関係に見えてくる。写真上のサイズも合っているし、ひんやりした感触も共通している。ふたつが並ぶことで奇妙な印象が生まれる。

ここで冒頭の文章にもどってみたいのだが、そのなかで片岡は晴れた日と曇った日とのちがいを、自分との関係を軸にこのように表現している。

「曇った日の僕は現実のなかに取り込まれた。晴れた日の僕は、意識の上でどこかその日の外にいて、外から晴れた日を見ていた」「現実のなかに取り込まれた曇った日の僕は、その現実のなかでどこかにいつのまにか、消滅していた」「いつのまにかどこかへ自分が消滅してしまうことは、晴れた日にはなかった。自分が消滅するとは、自分の視点を失うことだ」

雪の写真はかなりアンダーで、雪が青みがかったグレーになっている。ヌガーほうは影が黒のホリゾントに吸収され、その形状と蝋細工のような質感が屹立している。どちらも曇りの日に撮られているのがわかる。しかも、その両方にホラーな雰囲気が漂っているのだ。ヌガーのほうが異様さが強く、その目で雪の足跡を見るとふたつの形状が関連づいてくる。雪のなかから掘り出し積み上げたものが左ページのヌガーのように見えてくる。だれかの仕業を感じずにはいられない。わたしたちには理由のわからないミッションを負った者がひっそりとシャベルを動かしたのだ……。

曇りの日には現実のなかに自分が取り込まれ、リアリティーが見いだせず、視点を失って自分が消滅する、と片岡は言う。この感覚こそがホラーだ。現実が個を凌駕するほどの力を発揮し、視点が失われた隙間に恐怖が侵入する。だから晴れた日にホラーは起きない。曇りや雨や霧の日が周到に選ばれる。

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