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『母』三浦綾子(角川文庫)

母

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「無償で無限な母の愛」

 以前、なぜか小林多喜二の『蟹工船』がブームとなったことがあった。格差社会が広がり、生活保護を求める人が増え、低所得者にとって辛い世の中になったことが原因であるとの分析も見られた。授業で扱ったこともあり、多喜二の作品は大体読んでいたが、多喜二の母の視点から語られる、三浦綾子の『母』は新鮮だった。多喜二の母セキは秋田から北海道に渡ってきたが、私の母方の祖父母も秋田からの入植者であった。

 セキは幼い時に近所の駐在所のおまわりさんに可愛がってもらった思い出があり、おまわりさんは優しい人だと思っていた。13歳で小林末松の所に嫁に入る。かつては裕福な家であったが、数年前に没落していた。その後義兄の慶義が小樽でパン屋として成功していたので、彼を頼って小樽に渡る。小さなパン屋を始めて、貧乏ながらも落ち着いた生活となる。

 築港の工事もあり、近所にタコ部屋があった。時々棒頭に折檻されるタコの声が響いてくる。警察に連絡しようとするセキだが、末松は「無駄だべ」という。幼い時の優しい駐在さんの思い出があるセキは、納得できない。「わだしは、警察は殴られてるもんを助けるもんだと思ってた。いじめられてるもんを、助け出してくれるもんだと思ってた。」一度は夜に逃げてきたタコを匿い、翌日パンと金を渡して逃がしてやった。働き者で人が好きなセキは、心優しい人である。

 そのせいか、子どもたちも優しい。弟の三吾がバイオリンに非凡な才能を見せたが、末松にはバイオリンを買うことができない。多喜二は弟のために、初任給でバイオリンを購入し、音楽の先生まで探してくる。三吾が練習する音を聞きながら、多喜二は小説を書いていた。

 多喜二の通っていた潮見台小学校は、貧乏な子が多く「オンボロ小学校」と呼ばれていた。合同運動会の時に、ここの生徒だけは運動服も校旗も校章もなかった。他の子供たちから「潮見学校、貧乏学校、運動服ないとてべそかいたーっ」と囃し立てられる。仕事があって見に行けなかったセキは、多喜二達が喜んで運動会に行っていると思っていた。だがそれは涙が出るほど辛いものだった。それでも愚痴を言わない多喜二が憐れで仕方がないセキである。

 腐ったリンゴしか買えない女性に対する哀れみの感情を妹のツギが口にしたとき、優しい心だけでは解決にならないと多喜二は言う。「だからね、母さん、貧乏人のいない世の中ばつくりたいと、心の底から思って、おれは小説を書いている。」この多喜二が殺されるのがセキには納得がいかない。「そんな考えがお上から見たら、どうして悪い考えだったんだべか。あんなひどい殺され方をしなければなんないほど、そんなに多喜二の考えは悪い考えだったんだべか。」

 セキは至る所で多喜二の優しかったことを語る。だが、語っているセキも優しい人なのだ。苦界に身を落としながらも、勉強したいというタミちゃんを、友人から借金までして救った多喜二を全面的に受け入れるセキ。タミの心根の優しさを心から愛するセキ。多喜二が何をしようと、多喜二がするのだから正しいことだと心から信じ応援するセキ。母の愛というものは、無償で無限であると心底分からせてくれる。もちろんそれは盲目の愛かもしれない。しかし、目を瞑ることほど恐ろしいことはないのだ。完璧の信頼がない限りは。

 周知のように三浦綾子キリスト教の結びつきは深いものだし、セキも晩年は近藤牧師のおかげでキリスト教に触れ、安息を得ていく。だが、三浦はこの作品でキリスト教を描いたのではない。セキの想いを通して「母」という存在を描き、貧乏で無学な「母」がいかにこの世の真実を察知していて、何が大切かということを教えてくれるという事実を描いているのである。

 「わだしが思うに、右翼にしろ、共産党にしろ、キリスト教にしろ、心の根っこのところは優しいんだよね。誰だって、隣の人とは仲よくつき合っていきたいんだよね。うまいぼた餅つくったら、つい近所に配りたくなるもんね。むずかしいことはわからんども、それが人間だとわだしは思う。」


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