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『ある日の村野藤吾 建築家の日記と知人への手紙』村野敦子:編(六耀社)

ある日の村野藤吾 建築家の日記と知人への手紙

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「手入れ人の記録」

2008年8月2日〜10月26日に東京・汐留の松下電工汐留ミュージアムで開かれた「村野藤吾——建築とインテリア」展は、「SECTION3 建築家の内的世界」に愛読書や日記、手帳も展示されていて印象的だった。ぼろぼろになった本のなかには経済関係のものが多くあり、手帳には罫線を無視して隙間を埋め尽くさんばかりの字や図やグラフがあふれ、文字は読むに難儀で独特だった。これほどの密度の日記や手帳、ノートのたぐいが膨大にあるのに、まとまった著作は一冊のみ(2008年9月現在)というのは意外なくらいだ。

この展に合わせて刊行されたのだろう。建築家・村野藤吾(1891-1984)が亡くなるまでの20年の間に綴った手紙や日記の中から、写真家である孫の村野敦子さんが編み、ゆかりの地を訪ねて撮った写真を添えたのが『ある日の村野藤吾 建築家の日記と知人への手紙』だ。

知人あての手紙に「一生の最後の日まで、鉛筆をはなさないでいたいものだと念願しております」と書き、そのとおりに生を全うした建築家は、70歳を過ぎてもカメラを下げて海外へ度々視察に出かけている。77歳でのパリ行きは赤坂離宮(迎賓館)の改修依頼を受けてのことで、「どうしてもベルサイユとトリアノンを見なければ、赤坂離宮に関係する資格がないし、またいろいろ研究する必要がある。このままでは不安の方がつのり、出掛ける決心をした」とある。この生真面目なまでの情熱は、先の展覧会で見た写真にも覚えがある。村野は、建物のみならず家具や照明にいたるまで立体的に検討するためには必ず油土の模型を作ったそうで、それは模型職人や事務所スタッフと交互にくらいつくようにして自ら手を入れている幾葉もの写真であった。

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大阪の事務所と東京を忙しく往復しながら、たまの休日には宝塚の自宅で丹念に庭の手入れをしていたようだ。高齢をおして旅を続けたのは建築家としての自身の手入れを怠るまいとしていたように思えるし、いつも図面を余白なく美しく丹念に仕上げたのはその建物が末永く手入れを受けられるようにとの計らいに思える。長く手紙のやりとりをした知人の「建築とは何か」との問いに、村野は「建築は土地と材料と労働」と答えたそうである。『資本論』を愛読していた村野の真意はわからないが、「労働」のひとつを「手入れ」とわたしは読んでみる。ついでに「建築」を「ひと」、「土地」を「場所」、「材料」を「心身」と読みかえれば、にょろにょろの読みにくい字で丹念にこの日記を綴ってきた老人の姿が、庭を眺める小部屋にある座の低い椅子のうえに浮かんで見える。

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「様式の上にあれ」。「様式」をはじめ、全てのこだわった考えかたはフィクションなのだと言い続けた村野にとって、人種もフィクションであったのだろう。アメリカへの旅日記には、日本料理店で「日本的には似ても似つかぬ日本」に不快を覚え、キング牧師の墓で妻に隠れ涙したことも書いている。同様に、人の名前もフィクションであれと願っただろう。しかし1969年、77歳の村野は40日の長きにわたり床に臥したが、その原因はストレスであったと言い、日記にこう記した。


すべての人を平等に見ることができる心境になったものと自分でも思い込んでいたところが、今度の最高裁のコンペの審査に当たって、見事にその予感は破られて、まだ人間としての邪念のようなものが、どうしようもなく胸を突き上げてくるのを抑えてはいるが、抑え切れない苦しみを感じた。……誰とも公平に付き合い、誰の作品も純粋な気持ちで見られるかと思いのほか、全くこの希望は空しかった。


魂の手入れが足らぬと、心を傷めるのである。それからさらに15年、鉛筆片手に手入れは続き、生涯現役のまま、村野は「永い休養にはいった」のであった。


造本:天野昌樹


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