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『鶴見和子を語る----長女の社会学』鶴見俊輔・金子兜太・佐々木幸綱著(黒田杏子編)(藤原書店)

鶴見和子を語る----長女の社会学

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おまんじゅうの番付を作る姉

 先日、父親が亡くなってお通夜を経験した。家庭では見せなかった父親の姿や、自分の生まれる前のことについて聞かせてもらったのはたいへんありがたいことであった。


 この本は、2006年、88歳で亡くなった社会学者・鶴見和子についての、追悼座談会の記録である。たとえていうなら、お通夜の席でみんなで賑やかに生前の鶴見和子について語らっているような本である。そのなかで、お通夜にいる人たちがみな「ほんとうにあの人はそういう人だったねえ」といって、表情をゆるめて鶴見和子のありし日の姿を思い浮かべていたにちがいないエピソードがある。実弟鶴見俊輔が、姉の和子について「年度末に、その年に自分のもらったおまんじゅうの番付を作っていた(笑)」と証言しているところだ。その発言で座が和らぎ、話もはずんで、司会の黒田杏子も、自分が贈ったまんじゅうが「予選通過」したことを和子に電話で告げられた思い出を懐かしそうに語っている。和子は、「おいしいと思うと、直接そのお菓子屋に電話しちゃう。主人に話を聞いたり、質問したり。それは積極的」であったという。

 このエピソードがおもしろいと思うポイントがいくつかある。

 1つは後半の「おいしいと思うと、直接そのお菓子屋に電話しちゃう」というところからうかがえるように、鶴見和子はいささかも物怖じしない、照れない人であったということ。小さいときから、家に偉い外国人がやってきても、スタスタと歩いていって握手してしまうような女の子であった。1995年に脳出血で倒れたあと半身が不随になっても、テレビに出、精力的に本を書いた。講演会においても、恥じることなく車椅子のまま壇上に出ていったときに右手をサーッとあげた姿はプリマ・ドンナみたいだったという。

 もう1つのポイントは、「番付」の部分にかかわる。

鶴見 とにかく彼女は日本にいてもずっと成績がいいんです。成績のいい人というのはだいたい世間に適応するんです。当時の成績のいい人だったら西田哲学なんです。だから西田哲学を一生懸命やっているわけ。で、今度はアメリカへ行くでしょう。アメリカはニューディールなんです。で、ニューディールを支えている知識人というのは、マルクス主義者で共産党員がかなりいます。そのファッションの中に入っちゃうから、彼女はヴァッサー(筆者注:アメリカの女子大学の名前)にいる時からマルクス主義がはいっちゃたんです。コロンビアでもそうです。ですからマルクス主義というのを不動の真理だと思っているんです。

 俊輔によれば、姉の和子はつねに優等生であって、「一番病」であったという。「この世間でだれが一番なのかという考えから出発するんだよ…そしていま一番優れているとされる論文から切りはぎをするでしょう。それが学風になっていくわけ」。こういう批判の延長上に普段のくらしのなかから思想を鍛え上げていく可能性を探っていったのが評論家・鶴見俊輔であったことはいうまでもないが、おまんじゅうにも番付をつけずにおかない和子と、なにが世の中で一番優れているとされているかを気にする和子は、俊輔の頭のなかにあって別物ではないのだろうと思われる。

 興味深いのは、俊輔が病に倒れて以降の和子を高く評価していることである。病に倒れ、半身不随になったことで、かえって彼女は、世間での名声によって人を評価するという「一番病」から自由になったという。それまでの和子は、客観的に社会はこれこれこういうものだ、という感じで論じるだけだったが、倒れてからのちは、「自分」が論文のなかに導入されるようになったというのだ。藤原書店で著作集を出すことになったとき、どの巻にも和子は自分であとがきを書いた。あとがきを入れることは、「一つ一つのだるまに目を入れるよう」な作業であり、そこには社会についての自分の「実感」というものがはいってきて、そのことによって彼女の学問全部が新しい様相を見せるようになったという。鶴見和子が晩年、半世紀以上の空白を経て、生命を燃やすがごとく数多くの短歌を作ったことは知られている。それは、「半世紀死火山となりしを轟きて煙くゆらす歌の火の山」と歌ったような有様であったが、これもまた、和子が自分自身の実感から思想を紡ぎ出し始めた兆候というふうに俊輔には見えているようだ。

 弟による姉の評価は以上のようなものだが、逆に姉は弟をどう見ていたのだろう。和子の晩年に付き添っていた歌人の黒田杏子によると、和子は俊輔を「生涯尊敬してい」て、「俊輔があの方をいいといったから」とか、本ができると「俊輔がよくできたっていってくれたわ」とか、なにをするにも「俊輔の意見」を気にしていたという。電話が弟からかかってくると、まるで「恋人」と話すようにして話していたとも評されている。

 晩年の姉については俊輔自身がこんな話を紹介している。

鶴見 和子は私に不穏な感じをずっともっていたと思うんです。で、死ぬ直前に…「あなたは一生私をばかにしていたんでしょう」っていうんです。もうちょっとで死ぬ人なんだよ。ズバッとそういわれると、「いや、尊敬しておりました」なんて言えないんだよ、そらぞらしくて。その不誠実というのが嫌なんだね。不良少年にとって不誠実というのは嫌なものなんですよ、断じて。…私は黙っていたんですよ。なんにも言わない。それで終わり。…だからわかったんじゃないですか。一生ばかにしてたということは、ずっとわかっていたんじゃないでしょうか。(笑)

 死の直前、2人によって交わされたこの会話は、なかなかすごい。この本の圧巻というべき箇所だ。お世辞も言わない俊輔もえらいと思うが、死のまぎわになって弟にこういうことをまっすぐに尋ねてしまったりするのがいかにも和子らしいように思う。2人の強烈な個性が、死の床において、静かに対峙している。そして、優等生である姉は劣等生である弟をついに負かすことはできないようにも見える。

 しかし、この姉と弟の「闘い」は、筆者の見るところ、姉の完勝である。というか、姉と弟ではそもそも闘いになどなりようがなかった。和子はつねに俊輔の庇護者であったからだ。不甲斐ない息子・俊輔を叱る厳しい母親の暴虐から身を挺して守ったのが和子である。長じてアメリカ留学中に牢屋に入っていた俊輔を助けたのも和子であるし、戦後、『思想の科学』を創刊するときに、だれを中心にして雑誌をつくっていくかをアドバイスしたのも和子であった。和子はつねに俊輔を守る人であったし、そのことを俊輔はこの本のなかでも「いのちを助けてくれた」という言い方で表現している。そういう関係性は絶対であって、姉は姉であり、弟は弟である。

 死の間際の和子の質問に、俊輔は「和子らしいな」と思い、いささか「まいったなあ」と苦笑しているように思う。同じように、不良少年らしい「誠実さ」を貫いて「いや尊敬しておりました」などとは言わない弟を、和子は「俊輔らしいわ」と思って苦笑しながらも許していたことだろう。俊輔が沈黙していたのは単なる不良少年の「誠実さ」からだけのことではない。姉はがっかりしないだろうな、自分を笑って許してくれるだろうな、と思っているから、俊輔は不良少年の誠実さを貫くことをできたはずである。そこには、いつも自分を庇護してくれた姉への、かすかな甘えがある。姉と弟、その微妙な力関係のドラマがここにはあって、同じく姉をもつ筆者は「ああ、わかるなあ」と強く共感してしまった。

 ところで、俊輔は最初から最後まで、和子は優等生、自分は劣等生であった、と繰り返し強調しているが、和子と俊輔の下のきょうだい2人からみると、彼らは自分たちとはまったく違う存在であり、2人で1組みたいな存在だったという。そういえば、和子が「一番」にこだわるように、俊輔は自分が「ビリから六番目」だったことにこだわっていて、方向性はまったく逆だが、番付をやたらと気にする点で、二人は相似形である。それに、193ページに入っている鶴見和子の写真をぜひ見てみてほしい。これがじつに、俊輔に似ているのだ。目元のところとか、首をちょっと右に傾げているところとか。ふたりは二卵性双生児なのですよ、と言われれば、素直にうなずきたくなるぐらい。鶴見和子鶴見俊輔。俊輔は否定したいのかもしれないが、2人は意外にずっと似た存在だったのではないだろうか。


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