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『最期の教え』ノエル・シャトレ(青土社)

最期の教え

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「母が予告した死までのカウントダウン」

ある著名な作家の妻がこう言った。


「車椅子の生活になるくらいだったら死んだほうがまし。」

昔、脇役女優だったこともある彼女は、注意深い自然食主義のおかげなのか、今でもその美貌は色あせていない。私は驚いて、すぐに聞き返していた。

「ホントなの?車椅子なんて誰でもふつうに使うと思うのだけど・・」

けれども、彼女にしてみればそれは絶対に許されないこと。車椅子の上の自分など惨めすぎるイメージなのだ。

「歩くことさえ他人の力を借りるなんて耐えがたい。あまりにも不便だし。だから死んだほうがまし。」

知人の死生観を聞いて、どっきりさせられることがよくある。理想の死を語らせると、かえってその人の生き方のほうが透いてみえてしまうから。そして、この手の議論は白熱すると厄介なことになるから長く続けないほうがいい。ただ、心の中で私はこうも思った。

「かくいう彼女だって本当に車椅子生活になれば、あっさりと受け入れてしまうのはわかっているはずだわ。だって彼女の自尊心は最後まで失われないはずだから。」と。

でもだからこそ、こういう人は自分で決めたとおりに死にたいと願う。疲労した自分、依存的生活を受容してしまう前に。この本は実際にそうした決心で死んでいった母親と、その予告を受け入れざるをえなかった娘のことが書いてある。実に、あっさりと数語でそれは始まる。

「それでは、10月17日にしましょう。」

           ~*~

「自分の死の期日を言明し、尊厳死の権利を主張し、逝くことを選んだ92歳の母。

その受け入れ難い決定に苦悩する娘。フランス元首相の妹・尊厳死協会重鎮の娘である作家が綴った葛藤の日々・・・」帯にはこうある。

私は『最期の教え』というタイトルと装丁に惹かれてこの本を手にとり、そして帯をみて、こんな悲痛を飲みこまざるをえなかった娘がフランスにいたことを知った。私はこの人とは正反対の体験をしたのだろう・・・。かわいそうなのは彼女のほうなのだろうか。いや、私も。どちらにしても、母親の死が世間の理解を超えた事として始まったのは違いないのだけど。

そして、私も最初は抵抗したが「最期の教え」に従うことになった。そして、いまなお死んだ母を強く慕って幼い頃の思い出を辿っているのはノエルと変わらない。母親たちが差し出したのは両極端の選択。自分で決める死と誰にも決められない死。

「それら」のいずれが正しいのか。わからない。それに、死んでしまった人に聞くことはできないから。ただ私の母は「決められない人」だった。そういう人は誰かに決めてほしいとさえも思っていない。カウントダウンのない病状悪化の日々は、私たちにとってはルールのない暗号を解読するようなもので、いまだにわからないことはたくさんある。だから思い出しながら書きだしてみる。そうして書くことによって、私たちの関係が整理できるということもあったし、初めて発掘された感情もあった。秘密が解き明かされるように。むしろ、その点においてはノエルの体験と奇妙に共通する。そう、母の死後にわかったことはたくさんある。それは母のことだけとは限らない。ノエルが言うように、

「あなたが対面するように仕組んだのは、わたし自身の様々な部分だった」

ノエルは最初のほうではこうだ。

「ダメ。ママ、そんな考えをわたしに受け入れさせようなんてしないでね。陥り易い考えだけど、突発的なママの死は、わたしにとって、昼間の太陽に黒幕がおりるようなもの。

ダメ。あなたの死ぬ日は、記念日にはならないだろうし、いずれにしてもそうなるべきじゃないわ。

だって、あなたの死ぬ日は、いわばわたしの死ぬ日よ。あなたが何を言おうと!」

慄き怒りに燃えて、理解不能を宣言しているノエル。身勝手な母親の決定を受け入れる義務など私にはないと。でも、母親の謎の言動は少しずつ、物語(レシ)の中で解き明かされていく。

 「家庭用品を修理しない。それは、年をとり過ぎて消耗しすぎた女性を治療しないのと同じだ。それだけ。それが変な話かどうかは別の話だけれど、修理=治療してもらうかどうかの決定は、その年取った女性、彼女一人に責任がある。これがあなたの自覚だった。」

これだってとてもじゃないが賛同できない。助産婦をしていた人が、消耗した機械と高齢の女性が同じなんて言うのだから。ノエルはただ母の自殺予告を受け入れるのに相当な葛藤があったので、その時のエピソードを丁寧に綴ってみただけ。でもそれは、読者にこういう死に方もあり得るということ、母親の決意の強さも伝えてくる。

「疲労があなたを狂わせないうちに、あなたの勇ましさがまったく底をつき、無駄なことをしないうちに、旅立つこと。この「無駄な」という語には―「尊厳のない」とか「疲労」という語と同じく―きわめて特異で独特の、あなたなりの定義があった。あなた自身がユニークであったように。」

経歴にあるようなフランスの上流階級が微細に描かれているのではない。娘のモノローグは母親に話しかけるように流れているが、その中で母親は厳格かつユニークに死ぬ準備を進めていく。育ちの良さが香る文章だ。それは詩のように美しい語り口なので、母の死は娘によるストーリー仕立てで始まり終わらなければならなかったのだと私たちは気づく。

92歳の母親が決めた尊厳の境界線もありありと語られるが、母親は娘の語りの中で永遠に生き、「誰の世話にもならない人生」を貫くことになる。娘に自分が死ぬ日までのカウントダウンをさせること、二人の人生を振り返って語らせること。その実践が「最期の教え」だったのだ。しかし、娘は母親を崇拝していたけれども、いつも「あなたと同じ意見の側に」いたわけではなかった。

「あなたの知っていることと知らないことすべてをあなた宛てで書くことが正しいことなのだろう。そうすれば、あなたは書かれたもの、書かれるであろうものの中に存在しつづける。」

本書は女性の尊厳死がテーマのようではあるが、むしろ母娘にとっての互いの存在の大きさが情緒豊かに語られている。

ノエル・シャトレ

1944年生まれ。作家。パリ第五大学のコミュニケーション学教授。仏文芸家協会副会長。フランス元首相のリオネル・ジョスパンの妹。父は尊厳死協会の中心的な活動家だったミリエル・ジョスパン。哲学者、フランソワ・シャトレと結婚し、ジル・ドゥルーズの講義に参加、身体の解釈学の研究に導かれる。また、数多くのテレビドラマや『他者たち』『女銀行家』といった映画で女優として活動する。


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