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『江戸の読書会』前田勉(平凡社)

江戸の読書会

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「近世にあった「創造的な場」」

ジェイン・オースティンの読書会』みたいなものを連想すると、大分ちがうようだが、江戸時代の日本にも「読書会」があったらしい。『江戸の読書会』という書名をはじめて見たとき、山田風太郎の小説『エドの舞踏会』を思い出した。これは風太郎の「明治もの」に属する作品で、明治の元勲の夫人たちがみな芸者上がりというところに目をつけて、鹿鳴館華やかなりし頃の近代日本の裏面をユーモラスに描いている。「明治の中の江戸」的なもの、実はそれが明治をつくった当のものなのに、明治国家ができあがると滅びていって、昭和の破局にいたる。そんな風太郎的なモチーフを思い浮かべながら読むと、本書からもまた別の感興が立ちのぼる。


さて、本書は、「江戸の」と題しながら、明治の自由民権運動の話から始まる。

「斬髪して間もない武士や町人・農民たちは、演説会や読書会のなかで西欧近代の自由や平等の思想を学び、自らの頭で新しい国家のあるべき姿を考え、その枠組みとなる憲法の草案をも作っていった。」

そんなことがどうして可能になったのか。もちろん、幕末までに洋学が盛んになっていて、福沢諭吉も学んだ緒方洪庵適塾などを通して、新しい知識は流れ込んでいた。しかし、明治の早い時期から、福沢のような知識人だけでなく、もっと一般の人々が、互いに西洋の書物を読み合ったり、「一種のディベート」を組織したりしたのは、いかなるわけか。有名な「五日市憲法」などに結実する各地の「学習結社」の叢生は、驚くべきものだ。知識とちがって、「学び方」は一朝にして成らず、だ。本書は、その原点を江戸時代の読書会に当たる「会読」の伝統に求めるわけだ。

「会読」とは、意外にも、「文明開化」の旗振り役で日本に西洋式の「演説」「討論」を持ち込んだ元祖とされる福沢諭吉が「親の敵」と忌み嫌った封建制度を支えた学問である「儒学」の学習方法だった。その方式が洋学にも受け継がれて、短期間にあれだけ高度の西洋思想の受容が可能になったというのだ。一方的な講義である「講釈」、暗誦を旨とする「素読」に対して、「会読」では生徒たちが対等な立場で討論しながらテキストを読み合う。そこには身分制社会では考えられない「自由」があった。福沢もまた、少年期に通った漢学塾での「読書会読」では「上士も下士もなく」実力で渡り合えたことを懐かしく回想している(『福翁自伝』)。本書の中で、福沢は江戸と明治の「学び」を結ぶ狂言回しのような役を務めている。

かつて少年期に福沢諭吉に憧れたこともあって、筆者は近世史など全くの門外漢ながら、伊藤仁斎荻生徂徠から始まる「会読」の思想史をたどる本書を、興味深く読み進めることができた。本書の魅力は、ひとつには、日本思想史の中でも一際面白い時代であるらしい「近世」についての本格的な研究成果の蓄積(何度か引かれる「眞壁仁の大著」『徳川後期の学問と政治』名古屋大学出版会2007など)を、今また注目を集める「読書会」を切り口としてわかりやすく伝えてくれるところにある。また、日本という国で「儒学」という学問が元々の中国大陸や朝鮮半島を離れて独自の発展を遂げるとき、そこでは学問や教育の意味づけにも今で言う「ガラパゴス化」のような大きなちがいが出てくるが、本書の叙述を今のわたしたちの問題にも通じる切実さを感じながら読む人も多いのではないか。

科挙のない国の学問」は、基本的に、「立身出世」とは無縁である。だから、むしろ、本国ではむずかしくなった儒教本来の「聖人の道」を求めたり、実利を離れた「遊び」として学問にいそしむ態度が出てくる。それこそ自由な「会読」を生んだ精神であり、純粋に知を求める者同士が上下尊卑の別なく対等な立場で討論する「創造的な場」が、近世の知的世界をきわめて豊かなものにしていく。もっとも、「会読」が私塾だけでなく十八世紀後半から急増する藩校(近代の学校制度の原点)にも取り入れられると、それは「政治的議論の場」に変質しやすくなり、権力の警戒を呼ぶとともに、身分制度との緊張関係も露になってくる。「会読」を通して「徒党」を組む「結社」的動きが、しばしば権力闘争にも結びつく。「会読」が本来的に持っていた競争心や自己顕示欲を煽る負の側面は、試験・評価の問題とも結びついて、今日の教育者にとっても考えさせられるはずだ。それでも、昌平坂学問所のような官学であっても、限定的ながら学問の自由はあり、「闊達な討論」が行われ、「朋友同士の切磋琢磨の場」でありつつ「異質な他者を寛容する精神を養う」場でありえた。本書でニュアンス豊かに描かれている江戸時代の「学問」や「教育」のありかた(「寺子屋」とは別次元の)は、学校の教科書で習ったよりはるかにアクチュアルだった。

最後に、「会読」の「終焉」と「再生」にも触れなくてはならない。明治の初期には健在だった「会読」の伝統に引導を渡したのは、何といっても「立身出世主義」だった。宋代以後の中国のように、「科挙に合格するための受験勉強」が「社会的権勢と経済的利益」に結びつくとき、学問から「遊び」の要素は消える。今また「読書会」に熱い視線が注がれているのは、「学校の勉強とは異なる自由な学問」が再び芽吹こうとしているのか、あるいは儚い希望で終わるのか。およそ二、三百年の時を越えて、今のわたしたちも参考にできる「読書会」の理想とその現実を温かく描く本書は、「歴史好き」と「本好き」のどちらにとっても興趣尽きないはずだ。

(営業企画部 野間健司)


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