書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『Le Petit Prince』Antoine de Saint-Exupéry(Gallimard)

Le Petit Prince

→紀伊國屋ウェブストアで購入

「『星の王子さま』を四ヶ国語で読む」

誰もが知っているのに、実は読めていない。そんな「名著」を挙げればキリがないが、今年は『星の王子さま』をやっと読んだ。後で気づいたことに、原書が作者のアメリカ亡命中にニューヨークで(フランス語と英語で)刊行されてから、七十周年だそうである。これをきっかけに、出会い直す方もいるだろう。ずいぶんと遅れて来た読者ではあるが、やっと出会えたという一つの記録を、書き残しておきたくなった。


有名人の方がよく語っているような、「幼少のころに与えられて何度も読み耽った」というような原体験が、まるでない。社会学ピエール・ブルデューのいう「文化資本」のちがいなのだろうか。本をよく読むようになった十歳前後、すでに絵本とか児童文学が苦手だった。ひねりのある『残酷童話』とかは読んでいた。父の書棚にあった司馬遼太郎もよく読んでいた。その当時『星の王子さま』を読んだらどう思ったか、うまく想像ができない。

作者サン=テグジュペリの名を意識したのは、中学二年のとき。理科少年を脱して、いくらか文学的なものに開眼していた。何の予備知識もなく、近所の朽ちかけた古本屋で、『人間の土地』(新潮文庫)を手にした。内容云々というより、これがまだ刊行当時(昭和三十年)の旧字旧仮名のままの版で、いかにも「古本」らしい感じがした。たいして期待もせずに買ったが、開巻たちまち堀口大學の訳文に心を奪われた。

冒頭、ヒコーキ乗りでもあるらしい作者が、はじめての夜間飛行で目にした情景を、まざまざと眼前に蘇らせる。「星かげのように、平野のそこここに、ともしびばかりが輝く暗夜の景観」に、彼は何を思ったか。「あのともしびの一つ一つは、見わたすかぎり一面の闇の大海原の中にも、なお人間の心という奇蹟が存在することを示していた」。ある家では読書し、ある家では星を見つめ、ある家では愛し合っている。空から陸を見る飛行士のまなざしは、それを有象無象の塊とは見ない。一軒一軒の家の灯り、その下にうごめく無数の人々の営みにまで、思いを巡らせる。遠い昔、航空産業の黎明期、空と陸はこれほど近しいものだったのか。

「努めなければならないのは、自分を完成することだ。試みなければならないのは、山野のあいだに、ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、心を通じ合うことだ」というフレーズに魅了されて以来、サン=テグジュペリはわが心の英雄であり続けている。ただし、『夜間飛行』とか『戦う操縦士』といった作品を折々に読んで感銘を受けたものの、『星の王子さま』にはついぞ手が伸びなかった。(のちに新潮文庫版『人間の土地』は、あの宮崎駿監督によるカバー挿画と解説で、飛躍的に面目を一新している。引用は新版から。)

最初に出会ったのは、英訳だった。高校に入って、中学で嫌いだった英語が少しできるようになった。腕試し的に、当時は駅前の書店にも置いてあった「講談社英語文庫」を何冊か読んだ。そのうち、ちょっぴりとはいえ日本語の注記のある「和書」を卒業して、本物の「洋書」にチャレンジしたくなった。自然と、通学路の乗換駅に入っていた大型書店で、よく目にしていた絵本The Little Princeを購入した。三千円だった。たしか当時テレビで、「エデンの東」で有名な俳優ジェームズ・ディーンの愛読書として紹介されていた。サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は講談社英語文庫で読んでいたし、ティーンズ的な感性に訴えるものという共通点で読めそうな気がした。

しかし、思っていたより全然、すらすらとは読みこなせなかった。キャサリン・ウッズによる最初の英訳で、すでに半世紀を経たちょっと古めの英語ということもあっただろう。ただ、それ以上に、今思うと、ちっとも読めていなかったのだ。一番有名な「たいせつなものは目に見えない」の訳文”What is essential is invisible to the eye”を確認した以外は、王子さまがおかしな「大人」たちの星々を経めぐるコミカルな部分の印象しか残っていない。今読み返すと、これはこれで感銘を受けるのだけど。

次いで、大学に入ると、第二外国語をドイツ語にしたものだから、やはり練習的な意味で独訳Der Kleine Prinzを読んだ。『星の王子さま』は世界の百以上の言語に訳されていて、語学学習者にとっても、最初に読む本として選びやすいことになっている。ただ、ドイツ語の授業でいきなりフロイトを読まされたりしたのと、ずいぶんギャップがあった。すでに「大人」になりすぎていたのだろうか、ドイツ語の王子さまは哲学的だなあ、という程度の月並みな感想。さすがドイツ語と思ったのは、計算に忙しいビジネスマンが「五億一六二万二七三一」個の星を数えるところ。なんと、”Fuenfhunderteine Million sechshundertzweiundzwanzigtausendsiebenhunderteinunddreissig”となって、まさに数の亡者という感じがする(uウムラウトをue、エスツェットをssで代用した)。

どうせ読むならフランス語で、という気持ちはずっと持っていたのだ。第三外国語でフランス語も履修したが、苦手意識があって二年も初級をやる羽目になった。最初に選んだ言語の影響は大きく、フランス語の人はフランス語が一番と思いやすい。ドイツ語の人はなんとなくコンプレックスを抱えている。歴史的因縁もあってか、ドイツ語とフランス語を両方やる人はあまりいなかった。その断絶を軽やかに乗り越える・・・には能力が足らず、本を読めるレベルにはなかなか届かなかった。

最初の職場で、『星の王子さま』のフランス語原書Le Petit Princeの表紙を毎日のように目にして、いつか読みたいという思いは募った。ただ、大学を出てから、なぜか文学というものが読めなくなってしまっていた。原書と一緒に、『「星の王子さま」をフランス語で読む』(加藤恭子著、当時PHP研究所刊、現在ちくま学芸文庫)という本も買ったまま、ずっと積読していた。そのうちに、版権が切れたとかで、唯一の邦訳であった岩波書店版以外にも、数々の「新訳」が世に問われた。それでも、原書を読むまでは邦訳に触れないと決めていたから、ひたすら静観を守った。

フランス語原書を手にして、かれこれ十年以上もたってから、きっかけを与えてもらった。黒田龍之助さんの新著『ぼくたちの外国語学部』(三修社)を読んで、学生たちとさまざまな言語で『星の王子さま』を朗読する場面が大変魅力的だった。この本では、原語が絶対という考え方(フランス語の人にありがちな)はやんわり批判されていて、見識だと思う。それはともかく、外国語というものを、もう一度ちゃんとやってみたい、その手始めとして、この長年の未遂プロジェクトを前に進めたかった。学校を出てからも少しずつフランス語の文章に触れていたし、今なら読めそうな気がした。

辞書を片手に、フランス語原書を読み進む。いやあ、濃密な一週間だった。「フランス語は抽象度の高い言語」と言われる意味が、今にしてわかる。何につけ長ったらしい単語が多いドイツ語と比べて、たった一文字二文字三文字の単語が大事な意味を担っているので、油断ができない。子ども向けの本(フランス人は九歳から読めることになっている!)にしては、動詞の変化のバリエーションも豊富だ(半過去とか単純過去とか複合過去とか接続法未来とか!)。そして、サン=テグジュペリの文章は、ぎりぎりまで剪定された庭木のような、一字一句も無駄がないと言われている名文である。文字通りの意味だけでは、すっとは入ってこない、後から襲ってくる感興がある。語学力の不足もあって、牛の歩みで進んでは、一々つっかえて辞書を引く。ああでもないこうでもないと思い巡らす。この久々に汲々とした日常を抜け出る作業のなかで、ようやくこの物語を「読む」ことができたような気がする。

先人たちの無数の感想がすでに記されているので、ことあらためて何か書こうと思わない。と言いつつ・・・英訳で初めて触れたときから倍以上も年を重ねて、はじめて感じたことも少なくなかった。例えば、王子さまに決定的な気づきをもたらす賢者のようなキツネの「飼いならす」(apprivoiser)という表現には、深く感ずるところがあった。これは、数多くの「新訳」で言い換えの対象になったようだが、サン=テグジュペリ自身は「飼いならす」という意味で敢えて使い、あとでキツネが王子さまに「関係をつくること」と説明しているように、そこにポジティブな含みをもたせたのが独創という見方が有力だ(藤田尊湖『「星の王子さま」を読む』八坂書房)。だから「飼いならす」でいいわけだが(日本語的に「絆」などと言い換えられると、何かちがうような気がする)、やはりどこまでも賢いこのキツネが言うと、どこか悲しい。花とのエピソードにしても、「関係の悲しさ」ということをまず思ったのは、人生経験ゆえだろうか。

人間と動物だけでなく、どんな関係も、非対称性を含んでいる。どんなに近しくなったとしても、埋まらない溝がある。お互いにとってお互いが唯一であるような関係は、理想ではあるかもしれないが、出会いの時点の避けがたい非対称性、痛みのようなものは残る。実際のところ、植民地的な状況を思い浮かべればわかりやすいが、国と国、人と人との関係で、支配/被支配の力学とまるで無縁であることはむずかしい。あるいは、たとえ学校時代の親友同士であったとしても、完全に対等な関係なんてありえるだろうか。ということを、すでに知ってしまっている者は、悲しいではないか。その悲しい諦念が根っこにあって、キツネが言うような「飼いならし」「飼いならされる」関係、そのための「儀式」が求められてきたのかもしれない。そう考えると、『星の王子さま』は「子ども」の心を失った「大人」を批判しているように見えて、実は「大人」の世界の変わらない真実と逃げずに向かい合うことを促しているようにも思える。

もう一つ、王子さまが星々を遍歴して、そのたびに「大人って変だなあ」と慨嘆する、前半の印象的なエピソードだが、自分が若いころはその諷刺に一々溜飲を下げていたものだけど、いざ自分が逃げも隠れもできない「大人」となってみると、他人事とは思えなくなってきた。自分にも少しずつ、他者が見えない「うぬぼれ屋」や、数字しか頭にない「ビジネスマン」の要素はあるし、少なからず「飲み助」だし(酒呑みの理屈になっていない理屈をなんと見事に要約していることか!)、時の経過とともに現実からかけ離れてしまった「指令」に唯々諾々としたがい続ける「点灯夫」にも、身につまされるものがある。では、この物語は誰もが永遠の「子ども」であり続けることを理想化しているのか。王子さまが、おかしな大人のうちで点灯夫だけにはちょっと好意を持つのが、「自分とは別のことで忙しいから」というのは、注目に値する。王子さまは、他人の質問には答えないのに、自分の質問に答えてもらわないと気がすまない。いかにも自己愛的な人格に見えて、従容たる最期(と読むかどうかも議論があるが)にいたるまで、そこここで醒めた認識を持った「大人」の顔を覗かせている。読めば読むほど、「子ども」のままでいいという話でなく、真の「大人」とは何かと問いかけられているような気がするのだ。

さて、ついにフランス語で『星の王子さま』を読んだので、邦訳を解禁(?)した。まずは名高い内藤濯訳を読んだ。日本語の作品として、実に不思議な味わいがある。明治十六年生まれの七十歳が挑んだ「童心」である(内藤氏の『星の王子とわたし』を読むと、あたかも王子と一体化していたようなふしがある)。半世紀以上にわたる唯一の邦訳であっただけではない、その文学としての影響力の大きさを思う。フランス語原文の簡潔の美を、そのまま日本語に移しても伝わりにくい。「抽象度が高い」というのはそういうことだが、内藤濯は独特の言葉のお化粧を施すことによって、詩情豊かで思索的な「子ども」らしい日本語を創造した。その「印象訳」の冗長感が、一種たまらない魅力になっている部分もある。

しかし、『憂い顔の「星の王子さま」―続出誤訳のケーススタディと翻訳者のメチエ』(加藤晴久著、書肆心水)という本が出てしまっている後では、「誤訳」に頬かむりするわけにはいかない。その意味では、数々の「新訳」が世に問われたことは、悪いことではないはずだった。だが、加藤氏はなんと十四点も一気に刊行された「新訳」を全点(当時、その後も出続けている)にわたって比較検討して、厳しい評価を下している。これを読んで、辛口すぎる、重箱の隅を突いている、後味が悪すぎる、と感じる人も少なくないだろう。だが、最後まで読んでみると、指摘の大半に納得せざるをえなかった。本質的に「翻訳者は裏切者」であるにしても、最低限のルールは守られねばならない(作家ミラン・クンデラが自作の仏訳のデタラメぶりに憤慨して、自ら「真正の」フランス語版をつくりあげた例が詳しく紹介されている)。『星の王子さま』は想像力を刺激する作品であるが、それだけに、訳者の恣意的な解釈で読者の想像の自由を狭めることになってはつまらない。加藤氏のあくまで語学的な基礎をゆるがせにしない読解は、本当にフランス語のいい勉強になるし、自分の解釈の誤りをいくつも正された。何よりも、翻訳という営みの厳しさと(それゆえの)面白さを教えられた。

いくつかの「新訳」を読んで、それぞれの訳者の読み取り方、訳語の選択の工夫は興味深かったが、全体の調子、個性という点で、内藤訳を乗り越えることのむずかしさも感じた。あのように雨後のタケノコのように出すのではなく、それぞれ満を持して発表されたらよかったとは思う。『憂い顔の「星の王子さま」』の結論は、「サン=テグジュペリLe Petit Princeは、翻訳で読むのでなく、この作家とその作品を愛する者が、フランス語原文を、自分で読む、また、自分で訳すのがいちばんである」というものだ。まあ、そこまで言わずとも、と生半可なフランス語学習者たる私は思うのだが、フランス語や他の外国語でも読めたら楽しい、きっと別の気づきがある、とは請け合っておく。日本は、この邦訳数の多さたるや世界に冠たるものだろうし、各種語学教材もそろっているし、箱根には立派なミュージアムがあるしと、『星の王子さま』に触れる環境としては最高に恵まれている。けれども、あまりに恵まれすぎているとも思う。砂漠に井戸を求めるように、その環境からちょっと出てみた方が、つまり外国語で読んだ方が、この作品の精神はより深く味わえるのではないか。王子さまは、きっと今でも、遠い砂漠のどこかで、あなたに呼びかけるのを待っている。

(営業企画部 野間健司)


→紀伊國屋ウェブストアで購入