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『シェイクスピアのアナモルフォーズ』蒲池美鶴(研究社)

シェイクスピアのアナモルフォーズ

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マニエリスム英文学を体感

敬愛する編集工学研究所所長、松岡正剛氏の話題の『17歳のための世界と日本の見方』(春秋社)を読んで、背景にミッシェル・セールのライプニッツ研究やジル・ドゥルーズの『襞』を置きながらバロックを先駆的「編集工学」として説くくだりで、ぼくも一昔前、神戸芸術大学大学院で同じような講義をしたことがあり、これが帝塚山学院大学の学生にどこまで理解されたかわからないが、とにかくバロック・マインドを高校生(17歳)に教えようという玄月松岡の意力には拍手を送りたい。

高校までで教わるバロックなど、教科書が一段とヴィジュアルになっただけの話で、理解のあり方そのものは、一昔前、二昔前と全然変わらず、相も変わらずヴィヴァルディのバロック、せいぜいでカラヴァッジョのバロック、音楽美術の一範疇としてのバロック以上のことは全然出ていない。松岡氏のように「関係の発見」の“arte”としてのバロックなんて、とてもとても。

「関係の発見」のための巨大な練習問題集として松岡氏が途方もない大年表『情報の歴史』(NTT出版)を出して、バブル頽唐期にしかありえない贅沢なショックで我々を驚倒せしめたのが、1990年。知も財もすべてが実体より「関係」にシフトし、つまり一文化全体が「バロック」化した。

『17歳・・・』で松岡氏自体、そのために「バロック」という旧套概念をブラッシュアップしてみるか、いっそ耳慣れない(高校生が絶対知らない)「マニエリスム」というキーワードを選ぶかで、一瞬躊躇しているあたりの呼吸が面白い。

高校の教科書にマニエリスムが出てくるとは考えにくいし、ミケランジェロをマニエリストと呼ぶとは書いてあるとしても、今きみの歩いている新宿だって立派に(ネオ)マニエリスムの空間なんだよ、という話なんかになるはずはない。しかし今、たとえば新宿を理解し享楽するに一番必要なのは、まさしく(ネオ)マニエリスム(ないしネオ・バロック)なのに、である。

精神の孤立と世界拡大(の噂)、その中での蒐集と仮装―これがバロックマニエリスムの標識だとするなら、「アキバ」系なんて、別にある時代のある場所だけが専売特許みたいに威張るものでもない。電気がなかっただけで、16世紀末のプラハにも17世紀末のロンドンにも、いくらでもあった。マニエリスムという極端なハイカルチャーが俗化して現下のサブカルチャーとたいして違わないこの構造って何か、宮台真司を読んでも大塚英志を覗いても、全然教えてくれない。オマール・カラブレーゼやアンジェラ・ヌダリアヌスの過激なネオ・バロック論、翻訳進行の噂さえ聞かない。

マニエリスムには日本語の入門書がない。昔そう謳った新書一点あるも現在入手不可だし、やはりマニエリスムは「入門」という観念と合わない。ひとつあるとすれば、やはり大若桑みどり先生の『マニエリスム芸術論』(現在、ちくま学芸文庫)か。しかし16世紀から出ないオーソドックスなマニエリスム論(なんだか変)には違いない。

ぼくは、蒲池美鶴『シェイクスピアのアナモルフォーズ』(研究社出版)を推したい。マニエリスムがいかに何かを試みながら、それを自意識たっぷりに自分でも見つめながら進行するアートであるか、つまり、いかに鏡でしか比喩されない“reflexive”なアートであるかを、これだけ徹底して説得してくれる一冊は、洋書にだってそうおいそれとは、ない。マニエリスム入門とは、こういう自意識過剰な運動を理解し、共感共振できるかどうかということなのであって、別段XX年にどうしたこうしたという知識の問題ではないのだ。

遠近法的に世界を見せる技術は「理にかなった制作法」と呼ばれていた。それが実はいかに虚構であるかを批判的にあばく技術を、「アナモルフォーズ(anamorphose)」と呼んだ。簡単にいえば、ルネサンスの遠近法にマニエリストたちのアナモルフォーズが対峙した。ひとつ上の世代で一番開かれていた故川崎寿彦氏の『鏡のマニエリスム』(研究社)がチャートを描いた分野、それを蒲池氏が徹底的にやったのが本書。

正面から見るとわけ分からないもやもやの多色の塊が、横や斜めから見ると国王の肖像に見えてくる。一番有名なのはハンス・ホルバイン子の『大使たち』で、二人の外交官の足元に長細い謎の物体があって、横から見ると。これが骸骨。この種の騙し絵の流行が、まさしくイリュージョンどっぷりの世界たる演劇ジャンルに影響を与えなかったはずがなく、シェイクスピアやジョン・ウェブスターといったエリザベス朝・ジェイムズ朝の中心的劇作家が一様に、アナモルフォーズ的に現実が二重化している芝居を作り出した。

背景に薔薇十字結社の動きを配するといったマクロな次元でも斬新な本なのだが、具体的な詩行について、ひとつの文にふたつ以上の意味を析出する著者の有名な英語力に驚くほかない。サントリー学芸賞受賞作。名が示すように松田聖子の縁者だ。

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