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蓮實重彦「思考と感性とをめぐる断片的な考察7:声と文字」~『InterCommunication(季刊インターコミュニケーション)』No.58、Autumn 2006

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→『InterCommunication』No58・2006年autumn

●「無声映画と歴史 ――映画批評とメディア論」

 本論「声と文字」は、蓮實重彦が、現在『InterCommunication』誌(NTT出版)に連載している「思考と感性とをめぐる断片的な考察」の第7回として書き上げたテクストである。「断片的な考察」とされているが、蓮實自身の発言――「『InterCommunication』で連載しているテクストは、ゴダールだけを論じるものではなく、近くマネがらみでフーコーに言及し、それからセザンヌをめぐってストローブ=ユイレにも触れることで終わる予定の十九世紀=二〇世紀論として構成されたもの」(『新潮』、2005年5月号)――に予告されているように、その一連の考察はある一定の持続をともなって構築されている。すでに第6回にいたるまでに、予告されていたゴダールやマネ、フーコーについての優れた批判が展開されており、連載全体を通しては、本論がストローブ=ユイレを導入するための布石として位置づけられることになる。なお、現在、連載は第9回まで展開されており、本論執筆後に急逝したユイレ――すなわちストローブ=ユイレという複数にして一なる存在――をめぐって、映画における「声」と「私」、そしてイメージという問題系が仔細に考察されている(「偶然の廃棄」「複製の、複製による、複製性の擁護」)。

 この「声と文字」において、蓮實がまず問題とするのは、十九世紀の詩人、とりわけステファーヌ・マラルメの「声の不在」である。蓮實は、写真術によってマラルメの表情や身振りが記録されているにもかかわらず、この象徴派詩人の声が録音術によって保存されていない事実に注目する。この事実は、エミール・ゾラをはじめとして、十九世紀の多くの人々によって写真機が広く共有されていたのに対して、録音機による音声の複製が一般化されるまでに長い時間が必要とされたことを表している。また、十九世紀末に無声映画として誕生した映画は、それが発声映画となるまでに約三〇年の歳月を必要とした。この時間的偏差には重い歴史的意味がこめられているのかもしれない、と蓮實はいう。再現された映像と再現された音声との同調は回避され、その間には時間的なズレが生じていたのだ。では、このズレは、そして写真機やキャメラの普及とテープレコーダーの普及との間に横たわる一世紀の隔たりは、いったい何によるものなのか。人は、その偏差により敏感でなければならない。しかし、メディア論の多くは、エディソンによる蓄音機の発明を誇大視して、この事実に触れようとしない――グーテンベルクによる印刷術の発明を誇大視して、十九世紀の輪転機の導入を見落としてしまうように。あるいは磁気テープの導入による録音術の急速な民主化を語ることがないように。本論において、蓮實は、このようなメディア論の単純化された抽象性――「粗雑さ」――を問題視し、特に、フリードリッヒ・キットラーの『グラモフォン・フィルム・タイプライター』を鋭く批判していく。

 キットラーによれば、情報通信技術を通して、分離されていた情報の流れはデジタル的に統合された数値の羅列になる。そこではどんなメディアも任意の別のメディアに化けることができる。二〇世紀は、まだメディアがあり娯楽があり、その終末がやってくるまえにすでに何ものかが終末を迎えている時代と定義される。しかし、二〇世紀へ向けられたこのような視線は、蓮實にとっては単なる抽象にすぎない。そこには、デリダの痕跡についての思考をエディソンの蓄音機の発明に基づくものとする、二〇世紀を「非=歴史」化する姿勢がみえるからだ。したがって、キットラー無声映画から発声映画へいたる時間的偏差を、とるにたらぬ誤差として無視せざるをえない。とはいえ、蓮實は、キットラーが「エディソン小説」に言及している点で、その偏差に間接的に触れていることを認めている。この一連の小説においては、死人の声を蓄音機によって聞くこと、今はなき人物の声を再現することが主題とされる。そこでは、声によって具現化される身体性が映像による再現よりも高いことが指摘される。しかし、先にマラルメにおいて確認したように、人はこうしたかたちで録音術を十分に活用してはいない。蓮實によれば、この現実は、逆説的に「声の優位」――声が身体そのものであるがために、触れがたい「禁止」の領域となっていること――を示している。それは、自己への現前においてしか声が声ではないとデリダが批判した「現前の形而上学」に連なるものである。無声映画と発声映画の間の時間的偏差を歴史化しているのは、この「音声中心主義」的なイデオロギーにほかならない。

 問題は、無声映画を成立せしめた「声の禁止」ということをキットラーが無視していることである。事態はキットラー的な終末に抵抗していたように推移している。映像の再現と音声の再現は、異なる比重で人の思考と感性を騒がせていたのであり、その事実が、メディアの複製技術的な存在形態に歪みをもたらしている。もはや明らかなように、その歪みに無声映画が位置しているのだ。二〇世紀は、この無声映画の歴史性を無視して語ることはできない。そして、そこにおいては、映像が容認され、音声が禁止されていたのだ。しかし、メディアを論じているはずのキットラーは、それを成立せしめる諸々の感性的なフォルムをめぐる言説を口にすることはない。それは、UFA(ドイツの映画会社、Universum Film AG、1917‐1945年)をめぐる映画批評的かつ映画史的な記述の不備からも明らかである。蓮實がいうように、UFAがエリッヒ・ポーマーのデクラ・ビオスコープ社を吸収合併することによってはじめて、ドイツ映画は、F・ラングの『ニーベルンゲン』や、F・W・ムルナウの『最後の人』を得たのである。さらに、それのみならず、キットラーデリダのグラマトロジーを明らかに誤読している。それは、キットラーが「声」の「自己への現前」と同じものとして、「文字」の「自己への現前」を考えていることからも明らかである。蓮實によれば、「声」の「自己への現前」という現象は、「現前の形而上学」として、録音術の発明にもかかわらず、声の複製技術による再現に抵抗したのであり、「文字」は、そしてそれに類する視覚的な再現は、「現前の形而上学」においては二義的な役割を演じたがゆえに、普遍化された模造品として容認されたのだ。二〇世紀は、その模造品である無声映画が、複製されたもののリアルさを、未知の体験として人類の感性に提示したことで記憶されるべき時代なのである。

 キットラーは、映画を「イマジネールなもの」という側面から語る。そして、それを「ドッペルゲンガー」を可能とするトリック撮影のなかに見出し、また、『カリガリ博士』や『プラーグの大学生』などのドイツ映画を通してその主題を確認する。しかし、この議論もまた、蓮實にとっては粗雑にしか映らない。なぜなら、映画批評的かつ映画史的には、ドイツ映画は、ルビッチやラング、ムルナウらを持ちえたことで世界と拮抗しえたのであり、それらの高度な美学的達成に到達しえた無声映画に描出されているのは、ドッペルゲンガー的想像力や、文学におけるイマジネールなものとは程遠い、運動体験のリアルさそのものにほかならないからだ。

 おそらく、人は、無声映画における登場人物たちの声を永遠に聞けぬだろうし、マラルメの声は「デジタル的に統一された数値の羅列」たりえないだろう。キットラーにとってマラルメが「文字」の人であり、「声」の人ではないとしても、マラルメ自身は、いささかも「声」を追放したりなどはしないし、「文字」というよりも「活字」の配置と余白によって詩篇を作り上げていた。『骰子一擲』はその実践にほかならない。こうして、蓮實は、『骰子一擲』が「声」の追放とは無縁であることの証左として、ストローブ=ユイレの『すべての革命はのるかそるかである』を導入することになるだろう。

 以上のように、本論「声と文字」においては、蓮實重彦(映画批評)によるフリードリッヒ・キットラー(メディア論)の批判が鮮やかに展開されている。ここでは、メディア論的アプローチによって映画という視覚的表象を捉えることの困難さが提示されている。そしてまた、無声映画という「宿命」を背負った二〇世紀といかに向き合うべきか、という問いが提起されている。したがって、蓮實が繰り返し指摘するように、問題とされるのは、「映画と歴史」の関係にほかならない。キットラーが断言的に「1900年の書き込みシステム」を「歴史であることをやめた時代」として位置づけるとき(非‐歴史化)、しかし、そこでは明らかに映画への無知が告白されているといえるだろう。映画史とは、スクリーンに投影された、文字どおり大文字の、そして複数の歴史にほかならぬからである。映画によってこそ、二〇世紀の歴史が可能となるといえよう。

 とはいえ、ここで注目したいのは、本論が、映画批評によるメディア論の批判だけでなく、近代のメディアそのものへの根源的な問いを提起していることにある。もちろん、本論は、現在連載されている考察の一章を構成するにすぎず、その問いは今後も継続されていくことだろう。なお、本書評で、まだ連載中の考察から本論を紹介したのは、国際会議「Ubiquitous Media: Asian Transformation」において、蓮實とキットラーによるセッションが行われることによる。ここでは、映画とメディアをめぐるこのような問いが新たな批判知のパラダイム・シフトへ向けて転回されるはずである。

(中路武士)

・関連文献

Stéphane Mallarmé, Un coup de dés jamais n’abolira le hasard, revue Cosmopolis, mai 1897.(『骰子一擲』、秋山澄夫訳、思潮社、1991年)

Friedrich Kittler, Grammophon Film Typewriter, Brinkmann & Bose, 1986.(『グラモフォン・フィルム・タイプライター』、石光泰夫・石光輝子訳、筑摩書房、1999年)

Jacques Derrida, La voix et le phénomène, introduction au problème du signe dans la phénoménologie de Husserl, PUF, 1967.(『声と現象――フッサール現象学における記号の問題への序論』、高橋允昭訳、理想社、1970年)