書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『南総里見八犬伝 名場面集』湯浅佳子(三弥井古典文庫)

南総里見八犬伝 名場面集

→紀伊國屋書店で購入

シンプル・イズ・ベストを「発犬」させる一冊

ただ目に付いた本をてんでんばらばらに取り上げるのなら何もぼくがやることもない当書評空間なので、マニエリスムや、かつて「専門」ということになっていた英文学畑、技術史、文化史と何冊かずつテーマで括ってきて、そして今は江戸関連の最新刊ということ。

世間公認になったから言うと、今まで某大学で英文学を約25年、「表象」論を5年弱教えてきたが、勤続30年で些か「勤続」疲労の気味で、ついに転出。「気分転換」を図らねば頭が腐りそうだ。新しい相手がぼくに望んだのは「新人文学」万般という何とも鵺(ヌエ)じみたものだったが、江戸と大正という一番相性の良い時代を手掛かりに日本の表象文化・視覚文化を教えたいがと言ったら、認められた。手間暇かけて巨細にわたって日本文化・日本文学をやってきた人たちから憫笑されそうな一大冒険、もしくは身の程知らずな「敢為」である。成算は、ある。

もともと文化・文政期の頽唐文化についてはマニアだが、ヨーロッパ18世紀に転じてマニエリスム/ピクチャレスクの実態を追い、アーリーモダン新歴史学と「アートフル・サイエンス」(B・M・スタフォード)の大体が身についていくうちに、自ずと宝暦・明和(1760~70年代)期以後の江戸にもほぼ同じ問題群が生じていることが掴めてきた。先回取り上げたタイモン・スクリーチ氏とのお付き合いも実に巧くプラスした次第である。そして『黒に染める-本朝ピクチャレスク事始め』(初版1989)を一種のマニフェストとして世に問い、そこを出発点に青い目のホクサイ、蒼い目のキョクテイ・・・といった思いっきりバタ臭い江戸文化論を一方で続けてきた。だから明くる2008年からぼくが東京発信の江戸文化論の人間となっても、皆さん驚かないように。

まるでその変わり目を祝うかのように、江戸東京博物館に開館15周年記念と銘打って「北斎-ヨーロッパを魅了した江戸の絵師-」展が来た(~2008年1月27日)。今、実は久方ぶりに少しまとまった時間と落ち着きを得て、北斎論を書き下しつつある。60才になってきっと飽き飽きしていると心配していたが、十年は大丈夫そうだ。

「専門家」たちとネチネチ渡り合う気はないが、一応ミニマル・エッセンスは急いで頭に入れておこうと思って、これはという文学と芸術のカノン作品をもう一度虚心に見直し、読み直し、あいている穴を埋める作業を始めた。

その矢先に『南総里見八犬伝 名場面集』に出くわしたのも、何やら宿世の因縁か。文化から天保年間、28年の日子を掛けて熱く綴られ続けた98巻106冊。昔、岩波『文学』の鉄中の錚々というべき面々の只中に一文草さねばならず全巻読破したもの凄い体験を、ここでもう一度やるのかと些か暗然たるものがあったので、何とも嬉しくなるような魅力的なタイトルに惹かれ、早速読んでみた。

細かい点に関わっている暇はない、兎角全貌を掴みたいという願いは百パーセント満たされた。「あらすじ」が入り、それが終わる時点から本文原文(さわり)、その現代語訳、そしてまた「あらすじ」、原文、現代語訳、「あらすじ」・・・。全巻、この単純極まる繰り返しだが、いわゆる語釈だの解説だの一切ないところが、上のような目的の馬琴読みには逆説的でも何でもなく、実に有難い。昔、受験時代に徒然草だの枕草子だのこんな感じで読めたなあと妙に懐かしいが、最近のIT家電から学参・一般書籍まで機能過多の時代に、このぎりぎりシンプルな「名場面集」の爽快なスピード感は心地よい。三弥井古典文庫の「名場面集」は今のところこの『南総里見八犬伝』だけらしいが、ぜひ点数増えると、よろしな。

早速巻之一第一回、つまり冒頭を見る。「時は戦乱の世である・・・」で切り出す「あらすじ」が巧い。そして続く本文。

見わたす方は目も迴(はる)に、入江に続く青海原、波しづかしにて白鷗眠る。比(ころ)は卯月の夏霞、挽遺(のこ)したる鋸山、彼(あれ)かとばかり指(ゆびさ)せば、こゝにも鑿(のみ)もて穿(うがち)なし、刀して削るがごとき、青壁峙(はたち)て見るめ危き、長汀曲浦の旅の路、心を砕くならひなるに、雨を含(ふくめ)る漁村の柳、夕を送る遠寺の鐘、いとゞ哀れを催すものから、かくてあるべき身にしあらねば、頻に津(わたり)をいそげども、舩一艘もなかりけり。

本当に名文だ。しかも日本の伝統的風景観に関わる注一片ないから虚心に読むと、蛇状曲線(長汀曲浦の旅の路)を核にした掛け値なしのピクチャレスク・ランドスケープなのだ。シンプルなるが故にこちらの持つ豊かさ(!?)がいくらでも引き出される。

まさしく名場面集。ここ抜けてどうすると思った個所皆無。場面選択にも、「あらすじ」と「本文」の接続にも、まったく文句なし。編者湯浅氏は大久保純一スクリーチ両氏とほぼ同世代。松田修高田衛以降パワーダウンしたと噂される江戸学、いやなかなかのものですよ。

→紀伊國屋書店で購入