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『「つながり」の戦後文化誌』長崎 励朗(河出書房新社)

「つながり」の戦後文化誌

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「大衆教養主義の顛末」

労音といえば、年配の読者はなつかしいものがあるだろう。わたしは1960年代後半の大学生のとき、3人でないと入会できないからと友人に言われて京都労音に入会した。低料金で音楽を鑑賞できることや友人と一緒に行動できることなどが誘因となり、京都会館で催された音楽会によく行ったものである。クラシックだけでなく、ジャズやシャンソン、ミュージカルはあったが、日本の流行歌はなかったことをいくらか不思議におもったことが記憶にある。

本書はこの労音の発祥地である大阪労音(大阪勤労者音楽協議会)の立ち上がりの1949年から、全盛期、そして衰退(大阪新音楽協会と改称された1974年)にいたるまでを丹念に後づけ、かつダイナミックな分析をしている。大阪労音が成功すると、翌年、京都労音と神戸労音が誕生する。1952年には和歌山労音が発足する。そしてその翌年東京労音が生まれ、全国に労音が広がる。ピーク時の1960年代で労音の会員は全国で約60万人、大阪で約15万人。全国で最大の音楽鑑賞団体だった。

文化の発祥地といえば、多くの場合は東京で、下流文化が大阪発ということになっているが、労音の発祥は大阪で、そのあと京都や東京にできたという経緯がおもしろい。大阪労音の企画やプロデュースが宝塚歌劇とつながっていたからだ。そして、のちに万博ともつながっていく。

本書は、労音の中でも最大の団体だった大阪労音の盛衰を資料やインタビューにもとづいて克明に再現したものであるが、同時に、鋭い分析視角を用意している。それは、労音を戦後の大衆教養主義と人々のつながりの団体という視点からみていることである。わたしが1960年代後半の労音では、日本の歌謡曲はなかったことを不思議におもったと言ったが、労音は戦後の大衆教養主義を地で行った団体だったからこその西洋音楽中心主義だった。

そう、大衆が背伸びすることによる大衆的教養主義の波にのって会員が「文化的上昇感を獲得」できることで労音文化が花開いたのである。労音の衰退はこのような背伸びする大衆文化が没落したときなのだが、著者は会員数と大学進学率とのカーブから大学進学率16%をこえるころから労音の衰退がはじまったとする。労音が大学における音楽文化(若者文化)の代替物を中高卒者に与えてきた構造が変化したからである。さらに若者にとって「背伸びの対象となる文化は単に「高尚」であるだけではなく、「自分たちが新たなものを作り出している」という創造的参加感覚の認識がともなわなければならない。労音衰退の原因を創造的参加感覚がしだいになくなり、教養そのものになってしまったことによるとしている。従来の教養論の虚を衝く指摘である。

同時に労音は人々のつながりという社会関係資本を提供したという指摘も重要である。50年代、60年代は地方からの集団就職の時代であり、都会にやってきた若者には孤独感が大きかった。社会関係資本(つながり)を求める当時の上京青年の寂しさを摘出したことも、当時を同時代で知るわたしには、なるほどとおもえるものだった。当時、『人生手帳』などの人生雑誌がそのような機能を果たしていたが、その音楽版だったとおもうと、腹にストンと落ちてくる。このあたりは感情の歴史社会学としても重要な指摘となっている。こうした創見が柔らかく、読みやすい文章で書かれていて、処女作とはおもえないこなれたものとなっている。

労音を扱った小説には山崎豊子『仮装集団』(新潮文庫)がある。左翼政党「人民党」(共産党)が労音に介入したことによる共産党ノンポリの主人公の対立という筋立ては、本書を読めば現実とは少し違い、あくまで小説仕立てであることもわかる。

と、ここまで書いてきたが、本書の「あとがき」にあるように、実はわたしは著者とは研究会などでたびたび一緒になった。それだけではない。二人ともいまやマイノリティのスモーカー。休憩時間に喫煙場所で、よく雑談をした仲である。その縁(煙)もあって、本書の推薦文をいわゆる腰巻の部分につぎのように書いている。「『つながり』を生み出しうる文化の洞察にいたる技が冴え、見事な筆力。後生畏るべしの作品!」。この書評を、そう書いた理由として読んでいただければと思う。


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