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『懐疑を讃えて』ピーター・バーガーほか著、森下伸也訳(新曜社)

懐疑を讃えて

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福田恆存快哉を叫ぶ、かも」

本書の訳者とは、関西大学の同じ学部で3年間ほど同僚だった。本書を訳者からいただいて、しばらくたったときキャンパスで訳者に出会った。「売れている?」と聞いたところ、「さっぱり」というさっぱりした返事だった。「こんなよい本が」と驚いた。訳書刊行後1年半以上たっているが、ここでとりあげさせていただきたい。

著者のピーター・バーガーは、アメリカの社会学者。本書を入れて『社会学への招待』など邦訳がすでに13冊もあり、日本でもよく知られている。共著者のザイデルフェルトはオランダの社会学者。邦訳書に『抽象的社会』などがある。バーガー社会学の魅力は、古今東西の逸話、名文句などを要所にはめ込んだ博雅な教養が達意かつユーモアのある文章となっているところにある。かくて、読者はバーガー・ワールドにぐんぐん引き込まれる塩梅となる。

本書が日本の読者にややとっつくにくいとしたら、第1章(「近代の神々」)が宗教がらみで導入されていることが関係しているかもしれない。世俗化の最先端をいく日本の読者との間に隙間があるからかもしれない。しかし、宗教は道徳や世界観と切っても切れない関係にあるのだから、本書の導入部になんら問題はない。むしろ米英の読者には、そうだからこそ最初から引きつけられるという彼我の違いがある。だが、たとえ第1章がとっつきにくいとしても、ここを越え、慣れることで2章あたりから、俄然引き込まれるはずである。

本書のキーワードは「相対主義」と「ファンダメンタリズム」である。近代化は、ウェーバーデュルケームなどの社会学者が言ったように、世俗化つまり宗教の衰退化をもたらすわけではないが、信仰と価値観の多元化つまり相対化はもたらす。多元化と相対化は相対主義多元主義をもたらす。「事実などというものは存在せず、――あるのはただナラティヴ(語り)だけ」というポストモダニストたちの言い草はそうした潮流に棹さしさらに(絶対的)相対主義を蔓延させるに与っている。それが極まるところレイプ犯の「語り」と犠牲者の「語り」は同等の妥当性をもつと主張することになってしまう。相対主義は寛容さをもたらすが、多面で、人々の間に他の人も自分と同じように規範をまもるという信頼が消えることで、なんでもありの「デカダントな社会」になっていく危険性を秘めている。

ここにもうひとつ厄介な趨勢が加わる。多元化=相対化による相対主義は不可避的ではあるが、一方的ではないことである。相対主義の結果としてかえって「絶対的なもの」への郷愁が生まれる。相対化の弁証法が働くのである。宗教的原理主義や「利己的遺伝子」のような科学的合理主義「神」のファンダメンタリズムが生まれるからである。ここで著者は、「利己的な遺伝子」論をかの「予定説」(永遠の選びは、この世で人がなにをするかによってではなく、あらかじめ神によって予定されている)のポストモダン版とするが、言い得て妙という他はない。

相対主義は懐疑の過剰であり、ファンダメンタリズムは、懐疑の欠落である。ファンダメンタリストは、「狂信家」(トゥル・ビリーバー)とみなされるが、相対主義者も懐疑を絶対化する狂信家を心中に棲まわせているというわけである。

こうしていよいよ、現代病である相対主義とファンメンタリズムをともに乗り越える道が開陳される。ここは、短い要約ではなく、本書の第5章(「確信と懐疑」)以下を直接読んでいただきたいが、懐疑に対する懐疑によって人間の尊厳などの人類の普遍的価値に到達しようとする営みこそが人間の条件であるとする。そのために「懐疑に場所をさく政治」つまり「節度の政治」こそがふさわしい、と具体的かつ説得的に語られている。

本書は言う。「狂信に抵抗する人々は、みずからは狂信家となることなくてそうしなければならない」。その態度は、節度とユーモア感覚だと。その意味で、同じ著者と訳者による『癒しとして笑い』(新曜社)を本書と併読することを薦めたい。

本書を読みながら、福田恆存の教養とは節度であり、ユーモアは「その人の教養を物語る」という言明を思い出した。福田は自分の生き方は保守的であるが、自分は保守主義者というようなものではない、と言っている(「私の保守主義観」)ことも。福田が存命で本書を読んだなら、快哉を叫ぶだろう。そう思うのである。


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