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『秋の四重奏』バーバラ・ピム著、小野寺健訳(みすず書房)

秋の四重奏

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自分の人生と同じような人生を映した小説

 この小説は、退職を間近にした、60ちょっとすぎぐらいの男2人と女2人、合計4人が主人公の物語である。人生の秋を迎えた者たちが奏でる四重奏。それがこの作品の題名の由来である。


 小説の冒頭に次のような一節がある。

この四人のなかで、自分一人の楽しみのために、そしてできれば教養を身につけるために図書館を使っていたのは、レティだけだった。彼女は昔から恥じることもなく小説を読んでいたが、自分の人生と同じような人生を映した小説を読みたいと思うことがあっても、現代の小説家は、未婚で愛する人もなく中年にさしかかってきた女の立場になどまったく興味がないのだということをつくづく思い知らされるのだった。

 レティというのは、主要登場人物の一人であるから、この小説は、「現代の小説家」が「まったく興味をもたない」、未婚で愛する人もなく中年どころか老年に入りつつある女性を描いた小説ということになる。もう一人出てくる女性の名前はマーシャ。そして、彼女たちを取り巻いている男性2人がエドウィンとノーマンである。

 この4人、同じ会社の同僚なのだが、一足先に退職するレティ(ミス・クロウ)とマーシャ(ミス・アイヴォリー)の退職パーティのシーンがある。彼女たちの上司は、パーティで挨拶をしようとするのだが、彼女たちの仕事が何であるか思い出せない。記録するとかファイルするといった「女の仕事」であり、コンピュータでかんたんに取替えのきく仕事であるらしいのだが…。送別の辞はだからこんなふうになる。

「本日、そのお祝いのために私たちがあつまった、ミス・クロウとミス・アイヴォリーの重要な点は、だれも正確にはお二人が何をなさっているのか、いやなさってきたのかを知らないということであります」と、彼は大胆に言い切った。「お二人はずっと、いや現在でも、だれにも知らせずにひっそりと立派な仕事をなさる…現代のような産業一辺倒の蒼然たる時代には、ミス・アイヴォリーとミス・クロウ----名前の順序がいれかわった気がしたけれど、おそらく問題はなかった----のような方々こそ、われわれすべての範となる方々であります」

 残酷で辛辣。この箇所では思わず声を上げて笑ってしまった。とぼけたふりをして、「名前の順序が入れかわった気がしたけれど、おそらく問題はなかった」と書き込んでいるところも、この小説全編に行き渡っているドライなユーモア感覚をよく示している。

 レティの退職後の「立場」はきわめて厳しい。悲運が次々と彼女を襲う。悲運の始まりは、田舎に住んでいる女性の親友から結婚することにしたという手紙が舞い込んだことだ。老後は未亡人であるこの女性と一緒に暮らすつもりだったのに、当てが外れてしまったのである。田舎に引っ込むことができないなら、いままで通りの、ロンドンで借りている狭い部屋でがんばらないといけないな、と覚悟したのに、今度は、その家の家主さんが変わってしまい(新しい家主さんは、これまでのようなイギリスの老婦人ではなく、ナイジェリア出身の「黒人」だ)、レティは以後居心地の悪い思いをしなければならなくなる。これが第二の悲運だ。悲運はさらに続く。レティの境遇に同情したエドウィンから紹介された新しい部屋へ引越しをするが、「部屋が片づいていることを確認しておく義務があるという気にな」った新しい家主のミセス・ホウプは、レティの外出中に、タンスの中を覗き見してしまうのだ。「きちんと畳んだしみひとつない下着に、これもきちんと清潔なジャンパーやブラウス」がタンスのなかに並んでいるのを確認したミセス・ホウプは、

物足りない気持ちで、また階下へ降りていった。わかったのはせいぜい、そしてそれではおよそ充分とは言えなかったが、ミス・クロウはどうやら理想的な下宿人だということと、少なくてもその反証になるものはひとつも見つからなかったということだった。

 部屋がきちんと片づいているのを見て、かえって物足りない気持ちになってしまったというミセス・ホウプの邪悪な心の傾きの、なんて残酷なことか。また、タンスのなかにしみひとつない下着をきちんと畳んでずらりと並べられているところに、レティという女性の、地味で、孤独で、それを観察する者には痛ましく見えるかもしれない生活の様子が、ありありと浮かびあがってくるかのようだ。

 もう一人の女性マーシャの扱いも残酷である。「これからのことは、お考えになったのですか?」と退職後のことを心配された彼女は、「やっと」の思いで、「女にはいつだって、時間をつぶせることがたくさんありますよ」と答えたものの、退職の次の日、彼女がやったことといえば、スーパーなどでもらってきたビニール袋を「引き出しから引っ張り出し、形や大きさに応じて分けるというか分類」することでしかなかった。そのくせ、妙にその作業に熱中してしまった彼女は、「これからのことは、お考えになったのですか?」と訊かれたことを思い出して、あの質問は何だったのだろうかと「吹き出し」そうになる。しかし、滑稽なのは、むろん、その気遣いをした人よりもマーシャのほうである。

 この小説は、自分が「未婚で愛する人もいなくて老年にさしかかっている」女性であったとしたら、愉快な小説ではないだろう。それに、この小説では、登場人物相互の人間関係も希薄である。たとえば、上のような退職パーティの挨拶があったあと、残された男2人はこんな会話を交わす。

「二人ともいなくなったら、妙な感じだろうな」と、エドウィンがぎこちない言葉が吐いた。彼には、これが現実になったいま何と言えばいいのか、ほんとうにわからなかったのだ。わかる者はだれもいなかった。この場合は、毎日仕事が終わったあとで言う、ただのさよならや、お休みでは足りない気がしたのだ。二人の女性には、プレゼントをわたすべきだったのではないか----しかし、それなら何を? エドウィンとノーマンは相談のあげく、けっきょく、とても無理だということになった。「向こうでも期待していないよ----具合の悪い思いをさせるだけだ」、というのが結論だった。「それに、これから二度と会わないないというわけでもなさそうだし」。…オフィス以外の場所で会うことだってあるかもしれない----ランチの同窓会とか、そういった何かで……その何かが何になるかは想像もつかなかったけれど…..

 こんな感じの間柄だから、彼らの間で、たとえば激しい愛憎のドラマなど起こりようもないのである。ただ、上の一節で注目していいと思うのは、実行はされなかったけれども、プレゼントをわたすべきだったのではないか、とふと男性2人が心を動かしたという点である。これは、彼らの間には切れない糸がまだ微かに残っているということだ。じっさい、男たちは、定年後の彼女たちが気になって、ほとんど無意識のうちに、彼女たちの家のほうへ、つい足を向けてしまったりするし(そんな姿を当人に見られてしまったらバツが悪いだろうなと思いながら)、淋しくしているであろう女性2人を招いて会を催すこともしたりする(そういう会を開いても、むろん、いまひとつ盛り上がらないのであるが)。

 彼ら4人は、この小説のなかで、仲がそれほど良いようにも思われないのに、ただ偶然にも同じ職場に属していたという理由で、気遣いをしたり、気遣いをためらったり、気遣いを受け取ったり、気遣いを迷惑がった(ふりをした)りし、相互に近づいたり遠ざかったりする。4人が形づくる関係は、じれったいほどに遠慮がちで、奇妙にチグハグであるが、その関係性のドラマは、バーバラ・ピムの大先達であるジェイン・オースティンの小説と同様で、大きな出来事などほとんど起こらないくせに、起伏がちゃんとあって、スリリングである。そして、この小説は、驚嘆すべきことに、レティやマーシャといった初老の女性を辛辣に扱いながら、そして仲がいいんだかそうでないんだかよくわからない、頼りない人間関係を描いていながら、かすかに残された希望を、慈しむようにして、そっと結末部分において読者に差し出すのである。

 バーバラ・ピムという作家は、本のなかのレティやマーシャと同様、一生独身であった人である。作家活動の面では、小説を50年代に立て続けに発表したものの、60年代にはまったく本を出してもらえず、70年代、彼女にとっては晩年になってから、思いがけず、フィリップ・ラーキンやセシル・デイ・ルイスといった作家たちに「もっとも過小評価されている作家」と評されて復活したという。そのきっかけとなった作品こそ、まさにこの『秋の四重奏』であった。

 この小説は、「少なくとも人生にはまだまだ無限の変化の可能性があることを教えてくれたのだった」という一文で終わる。ピムにとって、この小説が、結果的に、ピムの「人生と同じような人生を映した小説」となっているのは、単なる偶然ではあるまい。年をとっていくということは、変化の可能性を一つ一つ失っていく過程である。そんなことをぼんやりと考えてみることもある今、この結末の一文に、筆者は励まされる。


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