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『紙と印刷の文化録 — 記憶と書物を担うもの』尾鍋 史彦(印刷学会出版部)

紙と印刷の文化録 — 記憶と書物を担うもの

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「紙と人間の親和性は永遠か?」

 待ちに待っていた本が刊行された。『印刷雑誌』連載中から、本になるのをずっと待っていたものだ。紙と印刷について、文化、歴史、科学技術面からの考察をはじめ、9.11やWikiLeaks問題といった政治経済まで、じつに幅広い話題が採り上げられ、毎回読むのが楽しみな連載だった。

 本書は、前日本印刷学会会長であり東京大学名誉教授(製紙科学)である “紙の専門家” 尾鍋史彦氏が、月刊『印刷雑誌』に1999年から2011年末まで13年間にわたって連載した「わたしの印刷手帳」156編のうち、70編を抜粋し分野別にまとめたものだ。

 章立ては「第1章 印刷物の影響力」「第2章 情報と紙の関係」「第3章 産業としての印刷と紙」となっており、各章の終わりには書き下ろしで総括的な文章が掲載されている。

 著者が製紙科学の専門家だから、ひたすら紙を礼賛した内容だと思われるかもしれないが、それは違う。尾鍋氏はシャープのPDAザウルス(懐かしい!)の初代機からのユーザーであり、1999〜2000年に行われた電子書籍コンソーシアムによるブックオンデマンド実証実験に電子書籍リーダーのモニターとしていち早く参加するなど、情報を伝達するメディア全般に広く興味を持った好奇心旺盛な人物である。

 そんな尾鍋氏が、認知科学、メディオロジー、文化遺伝子理論などを援用しつつ、研究者ならではの冷静で論理的な語り口で紙と印刷を論じていくのだから、面白くないわけがない。

 たとえば、ブックオンデマンド実証実験にモニターとして参加したときには、ディスプレイでの読書が記憶に残りにくいという実体験を、情報処理、認知科学の視点から考察している。

人間が視覚を通して本を読む場合、脳内で生得および習得の情報の影響を受けながら知覚・認識という高次処理を経て内容を理解する。視覚に入った刺激情報は感覚登録器・短期記憶貯蔵庫・長期記憶貯蔵庫から成るモデル(二重貯蔵モデル)の内の長期記憶貯蔵庫に順番に格納されていかなければ一連のストーリーは理解できない。すなわち文章の理解には刺激が長期貯蔵庫へ格納される形でなければならない。また文字からなる言語情報と画像からなる非言語情報では脳内での情報処理形態が異なり(二重コード理論)、言語情報ほどコンテンツを支えるメディアのメッセージ特性は重要となる。」(p. 115)

 そして、読後に内容があまり記憶として残らない原因として、2000年当時の電子書籍リーダーにおける紙の本との違和感、液晶ディスプレイの視覚への刺激が長期記憶貯蔵庫に格納できるレベルまで進化していないことを挙げ、「標示装置は画面が読めても認知構造の中で記憶に貯蔵され、知覚・認識されなければ役割をなさない」としている。

 本書の中で、尾鍋氏が最も重要なこととしてたびたび挙げているのが、「人間の感覚との親和性、調和性」である。

 心地よく、快適に読書をするためには、なにが最も適しているのか。現状ではやはり紙だろう。

 しかし、先にも書いたように尾鍋氏は、「だから、やっぱり紙が一番」と単純には考えていない。

例えば生まれたときからゲーム機で液晶画面に接して成長してきた世代は、液晶画面に中高年層が感じる違和感を感じる割合が少なく、紙メディアと同じ、または近い形で使うようになる可能性がある。(中略)

 電子書籍が普及するかどうかは紙メディアと比較した場合の経済性が一つの要素だが、一番重要なのはメディアとしての人間との親和性である。言い換えると液晶ディスプレイとの違和感が生得のものか否かが重要なポイントとなる。(p. 111)

 「液晶ディスプレイへの違和感」が生得のものなのか、それとも経験からくるものなのか、正直なところ、私にはわからない。道を歩いている最中もひたすらゲームをしつづけているような子供たちにとっては、紙でもディスプレイでも同じように、書かれた内容が、長期記憶として貯蔵されるのかもしれない。

 この「違和感」が後天的な経験からくるものなら、「違和感」を感じない世代は増える一方だろうし、ディスプレイそのものも、より紙に近い形を目指して進化を続けている。

 それを踏まえた上で尾鍋氏は、電子ペーパー、ペーパーライク・ディスプレイなど、ディスプレイの紙への接近が加速する中で、はたして紙はこのままでいいのか、と問う。

果たして紙は地合(=均質性や平滑性など。引用者注)が良く、白色度が高いほど読書しやすいのか、それとも若干ランダムな文様が存在し、白色度が低い方が読書のストレスが少なく、疲れが少ないのではないかなどの問題を今一度考え直してみる必要がある。(p. 129)

 そして、地合の良さを追及してきた製紙技術の進歩は、必ずしも人間の感覚との親和性を増大させてきたとは限らず、むしろ逆だったのではないかとし、和紙の再評価にも触れている。

 白色度に関しては一部政治的な側面があってややこしいのだが、以前から本づくりの現場では、墨一色の文字ものには目に優しく疲れにくいとされるクリーム色の紙を、カラー写真集などには白色度が高く表面が平滑な塗工紙を使うことが多かった。

 しかしここ数年、普通の上質紙にカラーで写真を印刷している本が増えてきているように感じる。私は単純に癒し系ブームの影響だろうなどと考えていたのだが、もしかすると、電子ペーパーなどのディスプレイが塗工紙に近づく形で進化していることへの危機感、違和感が、どこかで働いているのかもしれない。

 一方で、紙がディスプレイに近づく形として、リライタブル・ペーパーのような例もある。何度でも書き換え可能な紙のことだ。

 一時的に頭に入ればいいものについては、電子ペーパー電子書籍リーダーの利便性が「違和感」よりも優先され、紙の代替物となり得るだろう。すでに広報・広告物なんかはほとんどWeb媒体でこと足りているし、電子辞書なんか一度使いはじめたらもう手放せない。

 ディスプレイに映し出される、短期記憶に最適化された情報の氾濫の中で、従来の紙媒体が支えてきた長期記憶向けのコンテンツはどうなっていくのか。ディスプレイの進化と人間の順応性により、電子データからの長期記憶が可能になるなら、電子書籍は完全に紙書籍に取って代わることができるかもしれない。

 人間と紙の親和性をディスプレイが超えることはない、と言い切りたいのはやまやまなのだが、私が一番恐れているのは、結局「違和感」がぬぐい去れず、長期記憶向けのコンテンツがこの世界から消え去っていくことだ。数十年後、書物といえば電子書籍で、紙の書物が〈ウンチクの張り付いた骨董品〉扱いになっていないとも限らない。

 一方で、「電子書籍は無限の複製の可能性をもつために一冊ごとの価値は限りなくゼロに近づくと言える。(中略)電子書籍端末やネットワーク環境がいかに進化しようと、電子書籍ビジネスには利益が出にくいと言われるゆえんはこのような原理が背後にあるからだ。」(p. 38)という指摘なんかを読むと、はたして書籍の電子化が商売として成り立っていくのかと不安にもなる。

 しばらくの間は、紙の書籍で利益を確保しつつ、電子書籍で利益を出す方法を探っていくしかないのだろう。そのうちに、電子向き、紙向きという棲み分けが、もっとはっきり見えてくるかもしれない。

 いま書物はどこに向かっているのか、どう進むべきなのか。本書はそれを考える上で、とても興味深い手掛かりを与えてくれる一冊だ。

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