『砂の女(改版)』安部公房(新潮文庫)
「非現実から現実へ」
パリのシャイヨー宮にあった、一種の名画座とでも言えるシネマテックで、安部公房の「砂の女」を観たのは、15年以上も前の事だ。勅使河原宏監督のこの素晴らしい映画は、日本で一度観ていた。だが、一体パリではどんな人たちが来るのか、興味津々であった。
館内は満員で殆どがフランス人だった。しかも、何と字幕スーパーがなかったのだ。日本語を解するフランス人の多いことに、驚いたのを覚えている。日本の経済力の上昇と共に、中国語だけではなく日本語への関心も高まりつつあることを実感した。
映画が終りロビーに出た時に、一人のフランス人女性に話しかけられた。「あなたは日本人ですか?」そうだと答えると「終りの方の場面で、なぜ砂の女は苦しんでいたのですか。」と聞いてきた。子宮外妊娠であった事を説明してから、少し変に思い「あなたは日本語が分からないのですか?」と尋ねてみた。
彼女は当然のような顔をして「ええ、日本語は全く分かりません。原作をフランス語訳で読んだだけです。でも安部公房の作品はイメージを強く喚起するので、言葉がわからなくても楽しめます。」と言ったのだ。
私は驚愕すると共に、勅使河原宏の力量もさることながら、安部公房の作品の持つ不思議な力について考えさせられた。映画化した時に、言葉が分からなくとも観客を楽しませることができるのは、なぜだろうか。作品が視覚化されたからだけでは無いように思えた。彼女は映画を観る前から「楽しめるはず」と考えてきたのだから。
「八月のある日、男が一人、行方不明になった。」と始まる『砂の女』は、この男の失踪にいたるまでの経過を追っている。男の名前は最後にしか明かされないし、砂の女にいたっては、一度も名前が出てこない。だが砂の穴底の家で繰り広げられる非現実的な物語は、なぜか不思議な現実味を帯びてくる。
ありえない話のはずなのに、奇妙なリアリティに満ちている。私たちが普段何とはなしに「現実」と考えているものが実は現実ではなく、真の現実はその近くにあるが、私たちはそれに気がついていないと、安部公房は考えているようだ。
そういった時に作家はどのような手法を取るだろうか。真の現実を一所懸命描こうとするだろうか。しかし、「嘘のような真実」よりも「真実のような嘘」の方が信じられやすいように、真の現実をそのまま描いても、人々に訴える力はあまりない。むしろ一見非現実的、荒唐無稽と思われる世界を通して表現した方が、理解されやすいのかもしれない。
私はフランスに長年暮らしているが、最初に見えてきたのはフランスの真実ではなく、日本の真の姿だ。日本に暮らしていたときは見えなかった種々のものが、フランスから日本を眺める事によって見えてきたのである。
安部公房の手法も、このようなものなのかもしれない。彼の作り出す非現実的世界は、決して「非現実」を描いたものではなく、限りなく「現実」を映し出そうとしたものなのだ。その意味において、安部公房はリアリズム作家であると言うべきだろう。真の現実を見極めるために、今一度彼のリアリズムを味わってみては如何だろうか。