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『映画への不実なる誘い――国籍・演出・歴史』蓮實重彦(NTT出版)

映画への不実なる誘い――国籍・演出・歴史

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●「映画の孤独な擁護 ――二〇世紀を批判的に肯定する試み」

 蓮實重彦は問う。二〇世紀といかなる関係を維持すべきか、国際紛争と大量虐殺の世紀といかに接すべきか、と。二〇世紀が私たちのほとんどを作り上げ、私たちのほとんどが二〇世紀を作り上げたものである以上、私たちはこの問いへ応答する責任をもっている。はたして、二〇世紀を好む正当な理由はあるのだろうか。

 蓮實重彦は答える。二〇世紀について考えるにあたって、二〇世紀が誇りうるものとして、孤独に映画を擁護せざるをえない、と。映画という優れて二〇世紀的な視聴覚的表象を徹底的に擁護することで、二〇世紀を捉えなおし肯定しなければならない。映画が存在するからこそ、二〇世紀は、好まれる正当な理由をもっているはずなのだ。

 映画を欠いた歴史など存在しえない。映画に対する無自覚によって、二〇世紀の悲劇が政治的に導き出されたのだ。しかし、私たちはいまだに映画の機能と役割を理解するにはいたっていない。だからこそ、私たちは、為政者とは別の仕方で、映画に相応しい視線を送り、映画が存在していることの意味を把握し、思考すべきなのだ。二〇世紀を分析し記述し肯定するにあたって、映画の擁護をその中心に置くべきときが到来しているのである。しかしもちろん、本書のタイトル「映画への不実なる誘い」が示すように、あるいは本書の関連ウェブサイト「あなたに映画を愛しているとは言わせない」が示すように、二〇世紀の肯定と映画の擁護は、「批判的」に行われねばならない。

 本書は、戦争の世紀であった二〇世紀が映画の世紀であったという視点を確立するために、「批判的」な言説によって組み立てられた映画評論への優れた入門書である。本書において、蓮實は、映画における「国籍」「演出」「歴史」という三つのテーマを立て、映画によって喚起される問題系を仔細に考察していく。

 論考は、映画における「国籍」という概念の「脆さ」をめぐって開始される。蓮實はまず、二〇世紀のひとつの特徴として、独創に背を向けるというアメリカ的な独創性の活用――オリジナルの価値ではなく、その模倣‐コピーの大量生産と大量流通――という現象を指摘し、そこから、黒澤映画におけるように、リメイクや翻案といった、文脈の置換可能性による映画の国籍の脆さを提示する。そしてまた、蓮實は、ジャン=ピエール・リモザンダニエル・シュミット、さらには成瀬巳喜男を例に挙げながら、映画において、国籍の概念がいかに危うく、崩れやすいものであるのかをひとつひとつ確認していく。

 それを踏まえて、ギー・ド・モーパッサンの『脂肪の塊』(1880年)というフランス小説が、世界各国で交錯するように翻案され、多様なかたちで映画化されているという事態について考察が展開される。ここでは、日本版の『マリアのお雪』(溝口健二、1935年)、ロシア版の『脂肪の塊』(ミハイル・ロム、1934年)、アメリカ版の『マドモワゼル・フィフィ[フィフィ嬢]』(ロバート・ワイズ、1944年)、フランス版の『脂肪の塊』(クリスチャン=ジャック、1944年)、中国版[香港版]の『花姑女』(朱石鱗、1951年)が取り上げられる。蓮實によれば、『脂肪の塊』が、このようにさまざまな国で翻案されたのは、作品の主題が、その時期のプロデューサーを安心させ、かつ、その時期の優れた映画作家を刺激したことによる。しかしそれ以上に、映画においては、『駅馬車』や『上海特急』のように、その翻案の流通が、翻案そのものを超えた豊かな広がりを有していることも指摘される(この国籍の脆さという見解は、たとえば1930年代のフランス映画の美的イメージが、異邦人によって形成されたという事実とも共振するだろう→『映画はいかにして死ぬか』)。

 この映画の荒唐無稽さ――固有の社会的‐文化的文脈に背を向け、作品を多様なかたちで翻案し複製する力――は徹底的に擁護される。たしかに、アドルノとホルクハイマーが文化産業として定義した映画は、資本主義やフォーディズムの一形態として、あらゆるものを混同し翻案し標準化したが、しかし、映画を大量に流通するコピーによる思考の頽廃として嫌悪することは、二〇世紀を単に否定する抽象論を構築するにすぎない。映画は複製芸術として、みずからの表現を、否定すべきものとしてではなく、「新たに思考すべき生の条件」として現実に抱え込んでしまったのだ。映画は、それが複製であるがゆえに持ちうる、類似を否定することのない差異――モルフォロジーとテマティスムにおける、微細で質的な差異――の迫力を有しているのである。

 蓮實の論考は、次いで、映画における「演出」――「映画とはごく僅かなもので成立するものだ」という原則――をめぐって、テマティックに展開される。映画は「男と女と銃」で成立する(デイヴィッド・ウォーク・グリフィス)。映画は「男と女と車」で成立する(ロベルト・ロッセリーニジャン=リュック・ゴダール)。映画は「大人と子供と車」で成立する(アッバス・キアロスタミ)。ここでは、その変奏として、「男と女と階段」というテーマ系が導入され、アルフレッド・ヒッチコックの巧みな演出が分析されていく。

 まず、映画におけるショットの概念が説明され、その適確な演出の例としてヒッチコックの『めまい』(1958年)や『汚名』(1946年)が取り上げられる。続いて、ヒッチコック作品のなかに、『サイコ』(1960年)に見られるような、上下の縦軸といった視覚的テーマに関連する「饒舌な階段」と、『断崖』(1941年)に見られるような、視覚的効果が自粛された単なる装置であるにもかかわらず、物語の展開と撮影の仕方によって緊迫した雰囲気を醸し出す「寡黙な階段」というふたつの異なる文体があることが指摘される。

 それを踏まえたうえで、映画における階段が、とくに『汚名』において、テーマ系としていかに構築されているか、詳細に分析される。『汚名』においては、階段は、ヒッチコック的な「禁止」のテーマと深く結び付いており、「支配」という上下の縦の力学を露呈する装置として呈示されている。その階段が男と女によっていかに昇降され、構図や編集によっていかに見せられるかを通して、登場人物の感情の様態が表現され、緩慢なサスペンスが構築される。男と女と階段という単純な要素の組み合わせによって、映画が成立しているのが確認されるのである(この階段のテーマ系は、ヒッチコックにおける円環と球体の優位[曲線の勝利]、あるいは、落ちることと落ちないこと[落下と宙吊り]のテーマ系と明確に共振するものだろう→『映画の神話学』)。

 最後に、蓮實の論考は、映画における「歴史」をめぐって展開されることになる。ここでは、「女性」という切り口によって、ゴダールの『映画史』(1988‐1998年)の「横断」が試みられる。蓮實は、『映画史』に召喚された女性を選び出し、彼女たちがどのように作品のなかを横切り、ゴダールがそのことにどのように敏感であったか、『映画史』の「断片」を「持続」によって回復しながら、仔細に描出していく(この描出は、蓮實によるゴダール論がプレテクストとされていると考えてよいだろう→『ゴダール革命』)。

 蓮實が指摘するように、『映画史』において、1)アイダ・ルピノはハリウッドのスタジオシステムの崩壊とB級映画に、2)リタ・ヘイワースは戦後映画史における商品化された女性とそれを見る男たちの視線との醜い争いに、3)シド・チャリシーは愛の行為の表象としてのミュージカルの消滅に、4)リリアン・ギッシュはラスト・ミニッツ・レスキューに代表される映画的文脈の不可能性に、5)エリザベス・テイラー第二次世界大戦強制収容所に、6)アンナ・マニアーニはアメリカ映画の崩壊とネオリアリスモに、7)ジャネット・ゲイナーは見ることのできなかった映画への嫉妬に、8‐9)ルネ・ファルコネッティとフロランス・ドレーは優れた映画作家が引き出した女性の美しさに、10‐11)ヴィッキー・フレドリックとローレン・ランドンは女性の肉体の運動の賛美に、12)ナタリー・ウッドはあらゆる視線を惹きつける高みに、それぞれ結び付けられている。蓮實は、それぞれの女性について、ゴダールが涙したであろうところを選び出し、それを持続として提示したうえで、女性が『映画史』を侵蝕しているさまを描き出す。そして、『映画史』において、女性が「ひとつの主旋律」を形作っていることが明らかにされて、論考が閉じられる。

 本書は、連続講演という時間的制約のなかで組み立てられたテクストであるだけに、やや拙速な印象が否めない。十分に思考が展開されておらず、分析の密度に不満が残る箇所も少なからずある。しかしながら、本書を組み立てているテクストの「批判的」な力は、近年流行っている社会学的、歴史的、メディア研究的、文化研究的なアプローチでは到底追いつくことのできない、フィルム体系そのものへ迫ろうとする速度を有している。そして同時に、決して制度化されえない「批判」そのものの強度を有している。それは、ここで発せられ綴られた言葉のひとつひとつが、――「個人的な事情」から「映画評論家廃業」を宣言した経緯を蓮實がもっているにもかかわらず――なおいっそう豊かな「映画語」たりえていることを意味するだろう(もちろん、言葉はつねに映画に敗北するのだが、それでも言葉がスクリーンのように輝き響いている)。運動と時間、映像と音響、持続と記憶、光と影の戯れといったフィルム体験に拮抗しうる文彩と動体視力によって、本書は、映画という特異な思考の形式そのものを体現しているといえよう。「批判」が失われつつある現在において、本書の試みは今後も重要性を増すばかりであると思われる。

(中路武士)

・関連図書

François Truffaut, Le cinéma selon Alfred Hitchcock, Robert Laffont, 1966.(『映画術――ヒッチコックトリュフォー』、山田宏一蓮實重彦訳、晶文社、1981年)

蓮實重彦編『リュミエール』(No.1-14)、筑摩書房、1985‐1988年。

Jean-Luc Godard, Jean-Luc Godard par Jean-Luc Godard, tome 1 (1950-1984) et 2 (1984-1998), écrits, documents et entretiens réunis par Alain Bergala, Éditions de l’Etoile-Cahiers du cinéma, 1985 et 1998.(『ゴダール全評論・全発言Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ』アラン・ベルガラ編、奥村昭夫訳、筑摩書房、1998‐2004年)

・目次

第一章 映画における国籍

 国籍という概念、その脆さ/「日本映画」の揺らぎ/成瀬巳喜男『鶴八鶴次郎』における翻案/モーパッサン『脂肪の塊』の翻案――日本/ソ連版『脂肪の塊』/アメリカ版『脂肪の塊』/フランス版『脂肪の塊』/中国版『脂肪の塊』/「翻案」を超えた広がり/複製芸術としての映画へのまなざし/複製ゆえの迫力/差異への感性

第二章 映画における演出

 映画は「男と女と階段」で成立する/単純なショットの組み合わせ/階段の意味するもの/階段へのまなざし――小津、ヴェンダース/饒舌な階段と寡黙な階段/ヒッチコック『汚名』/階段への視線、演出/「男と女と……」

第三章 映画における歴史

 ゴダールの『映画史』――女性たちへの視線/『映画史』の断片を持続によって回復する試み/ゴダールとミュージカル/ゴダールの確信/ゴダール歴史認識/映画史と『映画史』/ジャンヌ・ダルク/映画史における貴重な瞬間への直感/ジョン・フォード『捜索者』――ナタリー・ウッドへの視線/黄色いバラ


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