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『ゴダール革命』蓮實重彦(筑摩書房)

ゴダール革命

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●「映画的、ゴダール的 ――クリティークとクリエーション」

 蓮實重彦がいうように、映画とは、いつ炸裂するともしれぬ「時限爆弾」である。映画には、撮られた時代や社会から遠く離れた地点で、時空を超えて不気味に作動し続ける時限装置が仕掛けられている。とりわけ、ゴダールの『映画史』(1988‐98年)に刻印されているように、すでに忘却され、なお禁じられ、つねに見えない不在のフィルムこそが、その不穏な装置を装塡している(ムルナウ、溝口、バルネット、エイゼンシュテイン……)。では、ゴダール自身の映画はどうなのか。蓮實によれば、ゴダールとは、発火時刻の設定以前に作動し炸裂してしまった時限爆弾にほかならない。だが、時限爆弾の設計に失敗するという企画に成功するというゴダール的な倒錯を前に、「どうすればよいのか」。本書は、この極めてゴダール的な問いをめぐって構成される「ドキュメンタリー」である。

  「映画作家は映画を撮る」。蓮實の論考は、ゴダールに纏いつく問題を解読することから始まる。蓮實によれば、ゴダール的な問題とは、すぐれて同語反復的な断言命題である。そこには「どうして」も「だって」もない。女は女である、失業者は失業する、誘惑は誘惑的である、孤独は一人ぼっちである、自分の人生を生きる、そして、女は女であるも自分の人生を生きる……。ゴダールの映画とは、このような人生の断片が交錯しあい、絶えず表情を変えてゆくアーカイヴである。映画は人生であり、映画は映画なのだ。そこでは、混濁と明晰が、悲痛と甘美が、夜と昼が、男と女が、直接的な語らいを演じている。したがって、ゴダール的な問題は、理由と結論を排した、その間隙(=と)をおし拡げる「破局的スローモーション」として生きられることになるだろう。そして、その間隙に差し込む光こそ、ゴダール的な恩寵=優雅さを表現しているのだ。

 「映画作家は映画から遠く離れる」。蓮實の論考は、次いで、1970‐80年代以降のゴダールをめぐって展開される。1)ゴダールという有名性が、政治的に集団的に映画を撮ることを通して匿名化され、映画から遠く離れていったこと(隠棲)、2)ソニマージュ工房において映画を思考するためにヴィデオとテレヴィが技術的に使用され、ゴダールにおける「間隙(と)」が政治的問題として顕在化していったこと(工場)、3)「ここにはいない遠い存在」として、ゴダールが商業映画に帰還し、映画それ自体がゴダールという「白痴」を通して自己反省されていったこと(遠くから)――蓮實は、これらそれぞれの時期の作品にひとつひとつ仔細に言及しながら、ゴダール的な問題の位相を時系列的に明らかにする。ここで、人は、「見えてはいないゴダール」と「見えているゴダール」の差異を通して提起される、視線と思考の過酷な体験(どうすればよいのか)と向き合わざるをえない。

 「映画作家は決算の身振りを演じる」。蓮實の論考は、また、『映画史』をめぐって展開される。蓮實は、ゴダール映画作家として引き受けた映画の歴史的な現実に由来する必然的な身振りとして、三つの厄介なゴダール的性癖――「間に合わないこと(遅刻)」、「待てないこと(性急)」、「与えないこと(交換)」――を挙げる。映画は、19世紀に、人民戦線に、スペイン内戦に、レジスタンスに、アウシュビッツに間に合わなかった(ゴダールは遅刻するほかない)。映画は、自分自身の潜在的な資質がどんな可能性を秘めており、それが顕在化されればどんな威力を発揮するのか時間をかけて待つことができなかった(ゴダールによる性急な断言と断片の反復)。映画にはそもそも与えるべきものなど何ひとつなく、むなしく夢の工場となるほかなかった(ゴダールによる贈与の否定とスピルバーグへの対抗)。ゆえに、ゴダールは、映画における貸借関係をゼロにする必要があったのだ。『映画史』は、この三つの映画的性癖によって組み立てられた映画史への「決算」の身振りとして定義され、それぞれの主題に応じて詳細に分析される。

 「映画作家は世紀のはざまを生きる」。蓮實の論考は、さらに、『映画史』と並行して撮られた、あるいは『映画史』の後に撮られた五作品のテマティックな分析的批評へと引き継がれる。ここでは、1)『新ドイツ零年』(1991年)が「二匹の犬」から、2)『JLG/自画像』(1994年)が「喪」から、3)『フォーエヴァー・モーツアルト』(1996年)が「ヴィッキー・メシカ」から、4)『愛の世紀』(2001年)が「女の表情」から、5)『アワーミュージック』(2004年)が「赤いバックをもつ乙女」から、それぞれ瞠目すべき視点と思考で批評される。また、それに続いて、「映画作家の仕事をたどる」として、『勝手にしやがれ』(1959年)から『ゴダールの決別』(1992年)へ至るまでの作品の評論が19本選定され、再録される。ここでは、文字通り「映画評論家の仕事をたどる」ことができるにちがいない。ゴダールにおけるテマティックな一貫性と多層性に触発された、映画との官能的な戯れが、豊穣な知性と感性を背景としたエクリチュールによってドキュメントされ、アーカイヴされているといえよう。ここには、ゴダールと蓮實が、映画の半世紀をいかに過ごしたかをめぐる記録が保存されているのだ。そして、巻末の書誌に明らかなように、この批判的思考のアーカイヴは、他の追随を許さない質量を備えている。

 映画とは「思考する形式」である。蓮實によれば、そのつど思考を刺激しながらもそこに形成される意味をひとつに限定することのない映画は、人騒がせで始末に負えず、物騒きわまりないものである(時限爆弾)。現実の複製であるかに見えて、その再現には決して行きつくことのない、裏切りの映像であり音響なのだ。だからこそ、人類は、「消費」しがたい芸術として、映画を必要とした。しかし、それがテレヴィのように大量に「消費」されてしまうという現実が、同時代的な連帯をこばむゴダールを孤独に追いやる。だが、私たちはその孤独を度外視してはならないと蓮實はいう。この世界に抵抗するためには、「ゴダール的」な孤独だけでなく、より深刻で救いのない「映画的」な孤独を、あと二つか三つ創造する必要があるからだ。本書は、その創造を要請するために書かれているといえよう(クリティーク→クリエーション)。なお、いうまでもなく、黒沢清が召喚されているのも、その創造の要請のためである。

(中路武士)

・関連書籍

Jean-Luc Douin, Jean-Luc Godard, Rivages/Cinéma, Édition augmentée, 1994.

四方田犬彦堀潤之編『ゴダール・映像・歴史 ――『映画史』を読む』、産業図書、2001年。

Raymod Bellour & Mary Lea Bandy (eds.), Jean-Luc Godard: Son+Image 1974-1991, Museum of Modern Art, 1992.

・目次

  プロローグ

    時限装置としてのゴダール

 Ⅰ 映画作家は映画を撮る

    破局的スローモーション

 Ⅱ 映画作家は映画から遠く離れる

    「白痴」の帰還

 Ⅲ 映画作家は決算の身振りを演じる

    ゴダールの「孤独」

 Ⅳ 映画作家は世紀のはざまを生きる

    そして、誰もいなくなってしまった、のだろうか…… ――『新ドイツ零年』

    喪中のゴダール ――『JLG/自画像』

    老齢であることの若さについて ――『フォーエヴァー・モーツアルト

    女と夜景 ――『愛の世紀』

    赤いバッグの乙女 ――『アワーミュージック』

 Ⅴ 映画作家の仕事をたどる

    『勝手にしやがれ』/『はなればなれに』/『恋人のいる時間』/『モンパルナスとルヴァロワ』/『アルファヴィル』/『気狂いピエロ』/『彼女について私が知っている二、三の事柄』/『ワン・プラス・ワン』/『東風』/『万事快調』/『勝手に逃げろ/人生』/『パッション』/『カルメンという名の女』/『ゴダールのマリア』/『ゴダールの探偵』/『ゴダールリア王』/『右側に気をつけろ』/『新ドイツ零年』/『ゴダールの決別』

  エピローグ

    ゴダール革命に向けて

  付録 特別インタヴュー

    映画はゴダールのように豊かであっていっこうに構わない(黒沢清

  蓮實重彦によるゴダール 関連書誌

  四〇年後に――「あとがき」にかえて


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