書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『象徴の貧困2――感覚可能なものの構造転換(カタストロフィー)』(未邦訳)ベルナール・スティグレール<br><font size="2">Bernard Stiegler, 2005, <I><br>De la misère symbolique 2. La catastrophé du sensible</I>, Galilée</font>

→紀伊國屋書店で購入

●「一般器官学と新たな政治エコノミーへ向けて」

「それは至るところで作動している、(・・・)至るところでそれは複数の機械である。それも、比喩的な意味ではなく。」(ドゥルーズ=ガタリ

 機械、というよりはむしろ器官と呼ぶのが正しいだろう。同時に「器官なき身体」の構想は、個々の器官の命運を追尾する「一般器官学organologie général」の構想に置き換えられるべきであるだろう。器官なきリビドーは霧散するしかなく、器官とはまさしくリビドーに場を与えるものである。また反復の実践を通して、器官はみずからがリビドーの「崇高な/昇華されたobjet sublime」となる。世界はリビドーのエコノミーの場としての諸器官から成り立っている。

 ベルナール・スティグレールは『象徴の貧困』シリーズの中で、その一般器官学の壮大な構想を展開している。第一巻『ハイパーインダストリアル時代』では、ハイパー産業化時代におけるリビドーの危機が論じられた。その議論は、一見すると現代の絶望的な「出口なし」を描写しているだけのようにも見える。しかしながらこの第二巻『感覚的なものの構造転換(カタストロフィー)』に明らかなように、スティグレールは芸術という文化的営為のうちに未来の可能性を明確に見て取っている。本書においてスティグレールは、その未来の可能性の条件を一般器官学という観点から論じていく。

 一般器官学の試みは、「感覚可能なものの系譜学généalogie du sensible」から切り離すことはできない。技術と共に出現する人間にとって、身体の諸器官はつねに技術を通して構成された「拡張された器官organe elargi」である。それゆえそれらの器官を通して立ち現れる「感覚可能なものsensible」は、身体に接続される技術的配置とともに変遷していくことになる。ここに「感覚可能なものの系譜学」が要請されることの必然性がある。

 スティグレールはその系譜学の試みにおいて、「感覚可能なものの機械的転回tournant machinique du sensible」を重要なメルクマールとして取り出す。19世紀における複製技術の出現は感覚可能なものの地平を根本から変容させた。とくに映画や音楽など、スティグレールが「時間的対象objet temporel」と呼ぶものの出現を可能としたことで、それまでには存在しなかった芸術的経験が生み出されることとなった。

 この「機械的転回」が重要であるのは、それが経験の質というものに介入するからだけではない。それは同時に、芸術作品の大規模な産業化をも可能とするものであった。芸術的経験のエコノミーは貨幣のエコノミーへと次第に組み込まれていき、このことがよりマクロな構造における経験の質の変容を産出していくことになる。ここにスティグレールが「ハイパー産業化時代」という言葉で喚起している問題の場所があり、そして新たな芸術実践の必要性が叫ばれるのもまたこの現在から出発してのことである。

 もし芸術的経験の核というものが存在するとすれば、それは何であるのか。スティグレールの答えは明確である。「信憑croyance」、これこそが芸術的経験の核心であるというのだ。そのことを示すに際して、スティグレールは三つの例を挙げる。1)芝居を見たことのないスペイン人の兵士が護衛に当たっていた劇場で、デズデモーナを扼殺しようとしているオセロを銃撃してしまったというエピソード。2)衛生意識の向上のために見たことのない映画を見せられたアフリカの人びとが、話の内容とはまったく関係のない雄鶏にしか興味を示さなかったというエピソード。そして、3)リュミエール兄弟によって上映された初めての映画を見た観客が、自分たちの方へと向かってくる電車を見て飛び上がったという伝説。

 これらの例を挙げながら、スティグレールは芸術的経験を構成する二つの契機を提示する。1)可動性を切断し、現実と虚構との区別を打ち立てること。舞台やスクリーンで繰り広げられる光景は、現実的な連続性から切り離された「他なる場所autre plan」で生じる出来事である。現実とは区別された虚構が可能となる「他なる場所」を立ち上げることが芸術的経験を可能とする条件であり、上に挙げられた三つの例は、いまだその区別が成立していない段階を示している。2)そのような区別が可能となるためには、「器官学の実践pratique de l’organologie」が必要であること。舞台やスクリーンは、ただそれだけで「他なる場所」とのインターフェイスとなるわけではなく、それが可能となるためには反復的な実践が求められる。その反復を通して、次第に舞台やスクリーンは「他なる場所」とのインターフェイスとして立ち上がっていく。いうまでもなく芸術の核に存在する「信憑」とは、このようにして生み出される「他なる場所」への「信憑」である。

 重要であるのは、デジタル技術によってあらゆる情報が統合されつつあるハイパー産業化時代においてこのような「信憑」の産出を模索することである。

問いとは、テクネー(技術)としての芸術の問いであり、そしてハイパー産業化された器官学の時代においてテクネーは、記憶媒体(hypomnémata)の新たな諸形態に即した器官学的諸実践を展開することができるようなある政治の発明を要求する。(p.158)

とすればここで問われるのはその政治の主体である。本書においてスティグレールは、手を通して残される物質的刻印に芸術的営為の根底を見出すヨーゼフ・ボイスの芸術的試みを取り上げながらも、アマチュアという存在に注意を向ける。

 技術の発達は芸術作品の大規模な産業化を可能としたのと同時に、サンプリング・ミュージックに見られるようにアマチュアによる芸術の領有をも可能とした。スティグレールによればアマチュアとは「対象を愛する者celui qui aime un objet」である。そこにおいて反復的な実践の対象となる「対象」は、「他なる場所」とのインターフェイス、すなわち崇高なものとなる。アマチュアという存在にこそ、現代で「信憑」が生み出されていくその可能性が潜んでいるのだ。

 

 現状は決して楽観視できるものではない。消費を大量に生産し、人びとに大量の消費を要求する資本主義の環境では、ありとあらゆるステレオタイプが出回っていく。スティグレールによればそのような事態はリビドーを育む特異性の経験そのものを枯渇させてしまう。とすれば人びとのリビドーを消費の活力としてまさに自身の源泉としている資本主義は、緩やかな自己破壊のプロセスを歩んでいるということになる。

 スティグレールの一般器官学の驚くべき点は、リビドーの経済をも包括するものとして考察されているところであり、「器官学の実践」と呼ばれていたものは、同時にリビドーの経済を展開していく実践でもある。「対象」に向けられる反復的実践を通して、「対象」は昇華されたものとなり、そのことによってリビドーの経済は活性化される。

 フロイトの読解を通してスティグレールは、それらの「対象」がトラウマタイプという独自の経験を可能にすると主張する。トラウマタイプとは「予期せざるものinattendu」の経験であり、それを通して既存の記憶のネットワーク=二次的把持が再編成を迫られるような経験である。ただしその予期せざるものとは、特定の「期待の地平horizon de l’attente」に潜在する緊張の発露である。それゆえ芸術受容の経験が示しているように、そこでの予期せざるものとの遭遇は、実践を通して「期待の地平」を開発していくことによって可能となる。つまりは予期せざるものとの出会いとは、記憶のネットワークが繰り返し動揺しながら発展させられていくというそのプロセスを指すのである。

 ここではリビドーの経済が、実践の「対象」を社会において配備していくという一種のエコロジーと結びつくことになる。スティグレールが繰り返し述べているように、まさに発明されなければならないのは精神のエコロジーなのであり、それは同時に精神の政治的エコノミーでもあるのだ。本書は一般器官学のプロジェクトという観点から芸術を考察していくことで、そのエコロジーとエコノミーの本質を鮮やかに描き出している。

(谷島貫太)

・関連文献

Jacques Rancière, Le Partage du sensible, La Fabrique, 2000

Benjamin, Walter. “Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Repro-duzierbarkeit”,1936.(「複製技術時代の芸術作品」『ベンヤミンコレクションI近代の意味』,浅井健二郎編訳,ちくま学芸文庫,1995年)

Freud, Sigmund. “Jenseits des Lustprinzips”, Internationaler Psychoanalytischer Verlag,1920.(「快感原則の彼岸」『自我論集』,中山元訳,ちくま学芸文庫,一九九六年)

・目次

当てもなく――読者への注意

語り手のいるプロローグ――感覚可能なものの機械的転回と音楽の特権性

I. 感じるために参加する、あるいは現勢化のための技法

II. 武装すること――ウォーホルとボイスから出発して

III. 我らすべて――変-容としての個体化と社会的彫刻としての変-容

IV. フロイトの抑圧――生は死に奪い取られその逆もまた

V. 分離する結合――カモノハシはどこへ?

→紀伊國屋書店で購入