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『情報批判論──情報社会における批判理論は可能か』スコット・ラッシュ(NTT出版)

情報批判論──情報社会における批判理論は可能か

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 今を記述すること。このことは常に困難を伴っている。今を記述しようとしても、記述しようとする今と記述という営みを行う今は必然的にタイムラグを含んでいる。その上に、その記述を読む今が積み重なることで、記述しようとした今は、すでに時代遅れの今である可能性もある。今を記述することは、あたかも次の今を記述する営みに「時代遅れだ」と批判されるためにのみ積み重ねられる破滅的な営みであり、その意味で悲劇的であると言えよう。

 だからと言って、今を記述することが捨て去られることはない。なぜなら、今を知ることが何よりも今を生きる我々に指針を与えてくれるからである。スコット・ラッシュが本書で行っている営みも、やはり今を記述することである。

 今までもラッシュは今を記述してきた。たとえば、本書と関連の深いベックとギデンズとの共著(『再帰的近代化』)は「再帰的近代」として今を記述する営みであった。近代化の徹底した形として近代の(制度的)再帰性を論じるベックとギデンズに対し、ラッシュは、それらが科学主義的・合理主義的性格を有し、文化主義的・解釈主義的源泉を無視しているために「不十分」であるとして、その(制度的)再帰性の更なる帰結を論じていた。そこでは、ベックとギデンズによる今を記述する営みである制度的再帰性論は近代化の悲劇的な様相を論じつつ、ラッシュによって「不十分」と批判されることによって悲劇的な役を与えられている。

 本書は今の社会である「情報社会」の諸特性について論じた書である。テクノロジーやメディアによって可能にされる社会として情報社会を描く点で、ラッシュはマクルーハンの正統的な継承者となっている(佐藤俊樹は、この手の情報(化)社会論の陥穽──テクノロジーのアナロジーで社会を記述することによる安易な技術決定論に陥ること──を指摘している。社会を記述することに興味のある方はそちらも併せて読まれることを推奨する)。ただし、ラッシュは、マクルーハンだけではなく、多くの巨人の肩に立って記述を行っている。マクルーハンなどのメディア理論以外にも、古典的哲学、フランクフルト学派、フランス現代思想現象学(的社会学)といった幅広い現代思想・社会科学に検討を加えており、本書は現代社会科学の一つの到達点でもある。

 ラッシュの立てた問いは、「現代の情報社会において批判理論は可能か」という、比較的単純な問題である。この問いに答えるだけなら簡単である。実際、ラッシュも先の問いを立てた直後に、「批判には従来常に超越的で別個の空間というものがあり、批判的考察はその空間から放たれることになっていた…。本書で論じたいことはこの手の批判はもはや不可能だということである」と答える。従来型の批判は不可能である、これがラッシュの答えである。

 ところが、この答えはかつてのラッシュ自身の記述に觝触する。ベックとギデンズとの共著の最後で、ラッシュは「〔社会理論的(政治的)課題への〕参加が・・・非常に批判力に満ちた距離からのものでなければならないと、私は強く主張したい」と記述している。批判という問題に対して、この記述と本書のラッシュの記述とは矛盾している。このような批判に対する立場の転換を、ラッシュはどのように説明しているのだろうか。

 ラッシュはこの問いから答えへと向かう過程を詳細に検討している。しかし、超越的なポジションからの批判が不可能であることについては、繰り返し指摘されてきたことである。クワインは科学的な知識体系から超越する外的なポジションを否定した。その段階ですでに超越的な批判の可能性は否定されている。したがって、ラッシュの行っている超越的な批判の不可能性は何も新しいことではない。ただし、批判論を検討する各章(第2部)も、デリダハイデガーレヴィナス、ルフェーブル、ベンヤミンヴィリリオなどの議論を批判の中に読み込んでいく作業であり、それはそれで非常に濃厚な知的エッセンスを含んでいる。

 ラッシュの独自性は、超越的な批判の不可能性を「情報社会」との関連で論じたところにある。ラッシュはポスト工業生産社会である今の社会を情報社会として記述する。コミュニケーション、テクノロジー、メディア、<information(情報)/disinformation(非情報的情報)>の共存、ストックではなくフロー、線形的ではなく非線形的。これらは情報社会の輪郭を成す特徴である。これらは再帰性の帰結として論じられる。たとえば、距離を置いた省察を必要とする言説的・分析的知に関わる情報はそれ自体で情報社会の特徴を成すが、その情報の過負担から帰結する極端なまでの個別性・事実性に関連する非情報的情報もまた情報社会の特徴である。ここに見られるのは、近代化の徹底であったところの再帰的近代化のさらなる徹底である。

 これら情報社会の特徴を貫いているのは時間の問題である。情報を機軸とするポストモダンにおいて、テクノロジーによってメディアの即時性が可能となり、個人やものはネットワーク上の単なる結節点になり、物事の網(ネット)は数多の出来事へと分解・断片化する。そこでの経験は、もはや反省をする余地もない、スピードという時間性である。ひたすら繰り返される今、今、今…。今に接続するのもやはり次の今なのである。「過去も未来もない今の時間性とは光速、つまり瞬間的時間である」。「「今」は偶発性ということ指向している」。そこでは、「新聞の記事が価値を持ち得るのはたった1日だけである。…最新のサッカーの試合の結果を報じる新聞記事は、試合終了後90分以内に書き上げて伝送しなければならない」。

 ここに至って、批判対象から距離をおいて省察するための空間は消滅する。「批判は情報内部のものであるほかない」。この批判は、かつての超越的なポジションからなされるものではない。そこでの批判は、コンセプチュアル・アート的なものになる。それは、未完であり、観客の(解釈ではなく)操作性によって進められる、そのように常に次の操作の可能性にひらかれている。その意味で、批判は超越的ではありえず、偶発的であり続ける。このように時間、批判を捉えることによって、ラッシュは自身の記述を転換・展開させているのである。

 ここに至って、批判という営みは、次に出てくる批判=情報に接続されるフローの結節点でしかないのである。最初の批判に対する批判も次の批判にひらかれているのであり、最後の批判は存在しない。批判は常に最後から2番目の批判であり続けるのである。

 同様に、記述される今も、次に記述される今によって接続されるための点であり、最後の今は存在せず、常に最後から2番目の今であり続ける。このように次々と今を記述することは、そのことによって人びとの一瞬の今を充たす「遊び」であり、悲劇的というよりは喜劇的である。これが本書から得られる帰結である(これは、ルーマン社会学的啓蒙の帰結を論じた馬場靖雄の議論とパラレルになっている。本書とそちらを併せて検討することで、ルーマン社会学的啓蒙とラッシュの情報批判論の異同──コミュニケーションのみか、テクノロジーに媒介されたコミュニケーションか──を考察することができる)。

 ラッシュの本書の帰結をさらに徹底させた先について考えてみたところで結論は同じである。確かに、本書は制度的再帰性を徹底させた先に出てくる今の社会を描いていた。しかし、これもやはり最後から2番目の今の社会。したがって、次に出てくる記述された今の社会によって乗り越えられることによってラッシュの論は破綻する、というわけにはならない。ラッシュの先に出てくる今の記述も、次の今の記述の可能性にさらされている最後から2番目の今の社会の記述であり、ラッシュのロジックの地平に出てくる記述だからである。

(畠山洋輔)

・関連文献

馬場靖雄,2001,『ルーマンの社会理論』勁草書房

Beck, Ulrich, Anthony Giddens and Scott Lash, 1994, Reflexive Modernization: Politics, Tradition and Aesthetics in the Modern Social Order, Cambridge: Polity Press.(=1997,松尾精文・小幡正敏・叶堂隆三訳『再帰的近代化──近現代における政治、伝統、美的原理』而立書房.)

McLuhan, Marshall, 1964, Understanding Media: The extensions of Man, London: Routledge and Kegan Paul.(=1987,栗原裕・河本神聖訳『メディア論──人間の拡張の諸相』みすず書房.)

Quine, Willard V. O., [1953] 1980, From a Logical Point of View: 9 Logico-philosophical Essays, 2nd ed., rev., Cambridge: Harvard University Press.(=1992,飯田隆訳『論理的観点から──論理と哲学を巡る九章』勁草書房.)

佐藤俊樹,1996,『ノイマンの夢・近代の欲望──情報化社会を解体する』講談社

・目次

 はじめに

 第1章 情報批判

第1部 情報

 第2章 テクノロジー的生活形式

 第3章 活気のある地帯、ない地帯──グローバルな情報文化に向けて

 第4章 非組織的組織

 第5章 統御困難な客体──再帰性の帰結

 第6章 メディア理論

第2部 批判

 第7章 批判と社会性──記号理論の再検討

 第8章 伝統、そして差異の限界

 第9章 表象の批判

 第10章 時間の後の存在

第3部 情報批判

 第11章 非情報的情報社会

 第12章 テクノロジー現象学

 第13章 非線形的権力──マクルーハンとハラウェイ

 第14章 結語──コミュニケーション、コード、再生産の危機


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