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『アートフル・サイエンス――啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』バーバラ・マリア・スタフォード(産業図書)

アートフル・サイエンス――啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育

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●「蒙」を「啓く」/「網」を「開く」――エンライトメントとエンターテイメントのあいだ

 18世紀の啓蒙主義時代に、文字でなく、視覚的なものが、人々の教育においてどのように用いられていたのかを問うこと。もし、本書に記されている内容をごく簡単にいってしまえば、こうなるだろう。とはいえ、スタフォードの述べる視覚的なものとは、けっして文字で書かれた内容を補填する挿絵、あるいはテクスチュアルな読解に従属するイメージなどを意味するわけではない。それは、人間の感官へと直裁的にうったえかける、「五官による手のこんだ知の諸形式」(p.8)のことである。つまり、著者は、「『蒙(くら)』きを『啓(ひら)』くこと」が目指されたかつての時代によこたわる、非文字的なる広大かつ強力な「認識知(epistemology)」の空間を、同時代のめくるめく視覚テクノロジー(の図版)と、それにむけられた多種多様な思想のむこうがわに見とおそうというのである。




 さて、啓蒙主義思想においてみられる、「文字文化」に対する「口誦-視覚的文化」の蔑視とは、そもそもプロテスタントカトリックに対してなした批判のうちにあらわれた主題でもあった。すなわち、神を可視化し、文字にもとづかない宗教教育をおしすすめるカトリックは、大衆を感覚的な眩惑へと導くフェティシズムにすぎないではないか、とプロテスタントから糾弾されたのである。それゆえたとえば、ときにカトリックの活動は、僭主をあがめさせるために様々な視覚的な魔力が動員される「東洋的専制支配」へと軽蔑的に重ねあわせられることもあった。

 「フェティシズム」、「東洋的専制支配」、「あやかし」、「ごまかし」、「目くらまし」…、なんと呼びならわされようとも、啓蒙主義者たちとって盲目的な感覚狂いはとにかく空虚で奇怪なものにほかならなかった。したがって、彼らが推し進めた思想的プログラムは、それまで貴族のひまつぶしでしかなかった娯楽をも、より教育的で意義のあるものへと変換していこうとした。みたところそれほど役に立つように思われぬ数学的なゲームですらも、感覚的な学習として、知性の弛緩を回避させ、無気力からたちなおらせることが期待されたのである。そのうえで、この種の「合理的レクリエーション」は、傍らで横行していた詐欺まがいのレクリエーションから、はっきりと区別されねばならなかった。のぞき眼鏡をみせる、見事な手さばきでカードをあやつる、客の目のまえで死んだ鳥を蘇らせるなどなど、各種のイリュージョンからなる詐欺文化、およびそれにたずさわり、無学の大衆をまどわせる「手妻」の詐欺集団(手品師、香具師、ペテン師……)は、啓蒙主義者たちにより糾弾されるさだめとなったのである。

 もっとも、啓蒙主義者たちといえども、あらゆるデモンストレーションに悪しき感覚狂いの元凶をみたわけではない。大衆だましを意図することなく、科学的啓蒙のために適切に利用されるかぎりにおいて、視覚テクノロジーは実に有効な教育ツールとして理解されもしたのである。チョークと黒板、それに教科書といった程度の見るべき教材に乏しかった時代、自然の真理を観客に対してデモンストレートすることで、視覚テクノロジーは彼らの無知に容易に光を照らすことができると同時に、それにより、それまでだまされつづけてきた巧妙な詐欺文化から身を守るすべをも、彼らは習得することができるとされたのである。



 ところが、である。こうした一連の科学的啓蒙でさえも、一歩まちがえれば、それが否定したはずの「手妻」がなせる技へと転落する危険性がないわけではなかった。なぜならば、ペテン師が大衆をそそのかすためにおこなった詐欺まがいのスペクタクルを教育家が暴きたてるためには、たとえその秘密を明かしつつ教育的実践がなされたとしても、やはりペテン師たちと同じ、刺激たっぷりのスペクタクルを、大衆のまえで見せざるをえなかったからである。かくして、「あらゆるエキシビジョニスム(exhibitionism 顕示趣味)が、非合理への、そして合理への二重のヴェクトルを孕む」(p.157)というぬぐいがたき困難あるいは逆説が、たち現れることになった。

 これは、巧妙なテクニックで大衆をそそのかす詐欺師であれ、その奇術を適正な原理に依拠してあばきたてる教育家であれ、いずれもが思考を「身体化(incarnate)」することへと向かっていたことによる。「事物がいかに示されるかと事物が何を示しているかを平気で別々のものにできる誤り」(『グッド・ルッキング』,p.5)を、幸いにもおかさないでいられたという点において、両者は互いに手をとりあっていたのだ。たとえ、そこにいっけんあからさまな対立関係がみられようとも――。テクノロジー(とそれを感受する視覚)の位置づけが、かくも複雑かつ曖昧でありつづけざるをえなかった事態――まさにそれをとおしてスタフォードは、啓蒙の時代における五官をめぐる「認識知」の広がりを、逆にはっきりと浮かびあがらせようとしたのだといえよう。



 本書のむすびでは、18世紀に関する壮大な歴史叙述を踏まえたうえで、著者は啓蒙の時代から19世 紀への接続も示唆するにいたる。ロマン主義思想における「意味と不条理、役に立つ学知と空虚な装飾」(p.355)という二極間の応酬も、上記でみた啓蒙主義時代における感覚の知に負うところがあるというのだ。たとえば、かのガスパール・ダーフィット・フリードリッヒが描いた窓越しに後ろ姿を見せる人物像も、こうした二極間の応酬から浮かびあがった形象なのだとされる。

 さらにまた、そもそも序論では本書が「18世紀と近代(モダニティ)末期の深い繋がりを考えるところから出発している」(p.8)とあるように、18世紀を媒介として、著者は視覚をめぐる今日的な問いもかかげている。スタフォードいわく、「マルチ・メディアがどんどの個人的で個別的なものになっていくにつれて、あらゆる形式のグラフィック・ディスプレーがもう一度、共通の儀礼、公けの関心と結び付かねばならないだろう。これが啓蒙主義の教えである」(p.365)。かつての時代の「教え」から現代の状況を照らそうというスタフォードのこうした企図は、たとえいくらそれがあざやかに提示されていようとも、いっそう深く分節化された問いに答えたうえで評価されるべき事柄だろう。とはいえ、少なくとも現代の我々に対して、こうした「啓蒙主義の教え」を説得的に示したという意味でのスタフォードの教えは、今後の歴史研究がとりくむべき、感覚や身体をめぐるいまだ未踏の問題系をしっかりと照らしだしてくれることだけはまちがいない。

(林 三博)

・参考文献

Barbara Maria Stafford. Body Criticism: Imaging the Unseen in Enlightenment Art and Medicine. MIT Press, 1991.(高山宏訳『ボディ・クリティシズム――啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』産業図書、 2006年)

――――. Good Looking: Essays on the Virture of Images. MIT Press, 1996.(高山宏訳『グッド・ルッキング――イメージング新世紀へ』産業図書、2004年)

――――. Visual Analogy: Consciousness as the Art of Connecting. MIT Press, 1999.(高山宏訳『ヴィジュアル・アナロジー――つなぐ技術としての人間意識』産業図書、2006年)

・目次

第一章 精神の解放

第二章 見えないものが見える

第三章 実験室ゲーム

第四章 エキシビショニズム

結び


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