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『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』バーバラ・マリア・スタフォード(産業図書)

ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識

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●「《観察/操作》としての一致」

 「何かが他の何かに似ている…」とは、どれほど確実な認識方法なのか。美術史を専門とするバーバラ・マリア・スタフォードの『ヴィジュアル・アナロジー つなぐ技術としての人間意識』(2006年、産業図書)は、「視覚することでのみ思考するような直観的方法をもう一度蘇らせ」ることで(p.61)、この問いに答えようとするものである。

 そこでスタフォードは「アナロジカルな手法の性質や機能を説明する力は、まさしくヴィジュアル・アートにこそ求められよう」(p.2)と前提し、次々と図版を引用しながら、超歴史的に「アナロジー」という思考方法の救出を試みる。訳者の高山宏曰く、「スタフォードにはまる」ということは、この「ジェットコースターのようなライド感」(p.226)に慣らされていくことであり、これを心地よく思うかどうかが本書の評価を決める処である。

 さて本著において興味深いのは、アナロジーを「参加(participation)」と捉える点である。その参加とは、異なる事物間に共鳴関係を作り出すパフォーマンスのことである。この参加というパフォーマンスを美術作品から観察することで、スタフォードは差異のなかの類似性、すなわちアナロジカルな秩序を見出していくのである。

「分かれたものの同士を統一にもちこむとか、偶然と絶対のみぞを埋めるとかいう不気味な視覚的能力は、アナロジーこそ認識の重要な特徴のひとつ、ということの一例になっている。それは知覚的判断力として、捉えにくい感覚的性質、束の間の感情を概念化する助けになる。してみると、共感覚的な繋ぎをつくることが科学発見への洞察にも、子供の発達にも重要だとして、何の不思議もあるまい。霊感を受けた推論は、分散した多様なものを一全体へと集めることを以て、知覚を概念的に結びつける。(種が異なるものの頭と尻尾を繋ぎ合わせることで)完全な人魚一体をつくる想像力豊かな仕事はただのお伽話ではなくて、知識形成が実際にはどう進むかのこの上ない象徴なのである。人間意識を人工物で一杯の現実に結びつける作業に終わりがないように、アナロジカルな営みにも終わりがない」(pp.27-28)

 要するに「人魚」とは、人間と魚が共に「参加」することで成立する共鳴関係(もしくは中間項)である。そしてこのようなアナロジカルな秩序を支えるのが、視覚的能力・知覚的判断力・霊感的推論である。スタフォードによれば、知覚的行為がこのように連結される時こそ、知識が形成される時なのである。

 本著はこのような表象分析を次々と重ねながら、ヴィジュアルでアナロジカルな認識方法を抽出し、スタフォードが「精神の結合術」(p.147)とも呼ぶ「神経系美学」(p.142)を描き出そうとするものである。そのために第2章では、アレゴリーとアナロジーの関係が、「テクスト」と「図像」の対立の歴史として描かれる。続く第3章では、ライプニッツの『モナド論』(1714年)における百学連環的な「連愛(attachments)」が、「図像大好きヒーロー」による「結合術的な方法」として描かれる。そして第4章では、「見るとはつまり、何かが何か他のものと繋がっている、繋がることができると即効理解することに他ならない」という前提から、脳と身体の不可分性を語る認知科学の知見を参照しつつ、バラバラな表象をさまざまに総合していく「自我(selfhood)」の理解が描かれる。

 なるほど、評者はヴィジュアルでアナロジカルな認識方法が「非合理なオカルト」(p.22)と見なされてしまうことへの違和感を共有する。なぜならアナロジーの肯定なくして、信じるに値するほど知覚された類比的な一致を肯定することもできないからである。観相学(やさらなる俗流化としての『人は見た目が9割』)まで徹底しなくとも、「何かが他の何かに似ている…」とは簡単には無視できない認識ではないだろうか。したがって問題は、このような一致をめぐる知をどのように扱うのかという点にある。

 例えばこの一致を、《観察》と《操作》という二つのレベルで捉えてみよう。するとスタフォードの議論は、上述のごとく、あくまでも芸術作品における《観察としての一致》という記述的な水準にある。しかしスタフォード自身も若干示唆していたように、今日の情報技術は、データ/メタデータの一致/不一致を調整・判定することで社会を制御している。指紋認証や光彩認証などのバイオメトリックス技術や画像認証技術などを想像すると良いが、これらはもはや《操作としての一致》という工学的な水準にある。

 つまり一致というヴィジュアルでアナロジカルな認識方法は、無限に展開可能であるがゆえに、どのようにでも運用できてしまう。反−言語としての《観察》対象である一致は、そのまま工学的な《操作》対象にも成り得てしまうのだ。したがってヴィジュアルでアナロジカルな認識方法を肯定するのであれば、それを単にアレゴリーへの対抗として切り出すだけではなく、その肯定がいかなる効果を生んでいくのかに注目すべきなのである。この意味において、本著は美術史に限らず、情報社会論や監視社会論における認証技術に関心を持つ者にも読み応えのあるものだと言えよう。

 なお《感覚》のいかがわしさに関心を持つ評者にとって、ヴィジュアルでアナロジカルな認識方法を次々と切り出していくスタフォード流の《感覚》は、どうしても楽観的で恣意的に映った。もし芸術作品から何かを感じとることができるのなら、それは結局のところ、自分がそうできると信じている者のみが感じられるのではないかと思うからである。例えば、アナロジーを切り出すために数多く引用される芸術作品たちは、なぜ他のそれではなく選ばれるのだろうか。このように読者の選択対象自体がすでに著者によって選択されている以上(この連続が「ジェットコースターのようなライド感」だというわけなのだが…)、芸術作品に対する視覚的な直観から導きだされるヴィジュアルでアナロジカルな認識方法=分析そのものではなく、それを熱く語るスタフォードの《感覚》=著者を信じるかどうかに読後感が縮減されてしまう気がしてならない。

(加島卓)

・関連文献

Barbara Maria Stafford. Body Criticism: Imaging the Unseen in Enlightenment Art and Medicine. MIT Press, 1991.(高山宏訳『ボディ・クリティシズム――啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化』産業図書、 2006年)

――――. Good Looking: Essays on the Virture of Images. MIT Press, 1996.(高山宏訳『グッド・ルッキング――イメージング新世紀へ』産業図書、2004年)

――――. Artful Science: Enlightenment Entrapment and the Eclipse of Visual Education, MIT Press, 1994(高山宏訳『アートフル・サイエンス――啓蒙時代の娯楽と凋落する視覚教育』産業図書、1997年)

・目次

プレビュー うしろへ、前へ

第1章 ポストモダン、類比の消滅

第2章 協和のフィグーラ

第3章 愛、この魔の引力

第4章 組み換え−−計算する「新しい精神」を、結合する「古い精神」に繋ぐ

後記 二元論の彼方へ−−達人より立つ人へ

訳者あとがき アイコノファイル・バイブル


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