『マイモニデス伝』A.J.ヘッシェル(教文館)
「アリストテレスと聖書の結婚」
マイモニデスは、ユダヤ思想家として名高いが、これまではぼくの知る限りでは邦訳もなく、どんな思想的な環境で思索を行っていたのか、少しぴんとこなかった。しかしキリスト教の哲学に大きな影響を与えた人物である。
リベラは「ラテン語圏のキリスト教哲学の重要な源泉となった」マイモニデスの影響について、こう語っている。「トマス・アクィナスは神の存在証明の三番目を彼から借り、アルベルトゥス・マグナスはアラブの哲学者に対する批判の一部を、マイスター・エックハルトは「哲学者の自然的理性による解明」という発想を借りた」(アラン・ド・リベラ『中世哲学史』阿部一智・永野潤・永野拓也訳、新評論、二七一ページ)。
このユダヤ人の哲学者であるマイモニデスは、イスラーム世界のうちで改宗を強いられたユダヤ人たちの思想的な支えとして思索を展開していた。当時のアフリカ北部からスペインにかけては、ムワッヒド朝帝国の支配下にあり、「アトラス山脈からエジプト国境に至るムワッヒド朝帝国中の、さらにスペイン国内の、シナゴーグと教会が破壊され」、「ユダヤ教徒は、殉教死することを望まないならば、イスラム教に改宗するか、他国へ移住するしか道はなかった」(p.15)。
ユダヤ人は表向きは改宗して、家の中でこっそりとユダヤ教の慣例を守ることができたが、「共同体内で祈祷することは死を意味していた」(Ibid.)。そのような状況において、モロッコの共同体では、「ある権威あるラビ」のレスポンサが発表された。それは「ひそかにユダヤ教のすべての義務と律法を厳格かつ誠実に遵守しているとしても」、背教者であり、「涜神の罪を犯している」(p.23)と非難するものだった。この声明に従う限り、ユダヤ人はイスラームの世界では暮らしていけなくなる。これはユダヤ人にイスラーム教への改宗を迫る逆効果を発揮したのだった。
このレスポンサに反論を示したのがマイモニデスの父親であり、これをうけついでマイモニデスはイスラーム世界で暮らしていくユダヤ人たちのために思想的な基盤を提供したのだった。マイモニデスはそのためにアリストテレスの哲学と、当時のさまざまなイスラームの哲学を研究し、「ユダヤ民族の存続そのもの」(p.58)が脅かされている事態に対処するために、タルムードを研究し、混乱に陥っているタルムード解釈を整理して、巨大な律法集を作りあげる。
それが「ミシュネー・トーラー」であり、「この一冊だけで、モーセからタルムードの完結に至るまでのすべての制度、慣習、規則の完全な集大成」となるものを目指したのである(p.113)。この書物はユダヤ人の世界で大きな反響を生み、マイモニデスはユダヤ世界の思想的な権威者となり、「最高裁の裁判所」にも相当する役割を果たすようになる。
マイモニデスは医者としても優れた手腕を発揮し、やがてスルタンの高官に招聘されて、宮廷のお抱え医者として働くようになる。要請されて多数の医学的な文章も発表しているが、そのために費やされた無駄な時間は、彼の研究に大きな障害となったのだった。
このようなイスラーム世界におけるユダヤ人共同体の思想的な指導者となったマイモニデスだが、派閥を形成することを嫌い、孤独な暮らしを好んだ。ただ一人、弟子いりをした人物がいた。この人物は聖書のアレゴリー的な解釈や形而上学的な解釈に熱中し、マイモニデスに学ぶことを願ったのだった。マイモニデスはその熱心さに感銘をうけて、ただ一人の弟子としてこのヨセフ・イブン・アクニンをうけいれ、息子と同じように愛しながら教えた。マイモニデスの哲学的な主著の一つとして残されている『迷えるもののための道案内』はこの弟子のために書かれたものである。
ユダヤ思想においては、レヴィナスが語っているように、師との対面のうちに学ぶ伝統がある。師は弟子の思想的な状況を完全に把握し、そしてその者にとってもっとも必要なことを教え、道を示すのである。この書物もまた弟子一人のために書かれたものではあるが、それは同時に、すべてのユダヤ人の思想的な導きとしても構想されたものだった。
しかしマイモニデスはこの書物が真剣にユダヤの思想を学ぶすべての人にとって、「道案内」となることを同時に目指していた。この書物で目指したのは、「宗教に対する懐疑に光を当てる啓蒙書であること、大衆の悟性から遠ざけられている秘め画された教えの真の意味を究明する」(p.243)ことだった。同時にユダヤの宗教だけでなく、イスラーム哲学を含む哲学と宗教との深い結びつきも明らかにしようとする。これは「聖書とアリストテレスの結婚」(p.249)を目指す書物なのである。
とくに問題になるのは世界創造論だったが、アリストテレスは世界は永遠であり、無から創造されたものではないと主張する。これにたいしてマイモニデスは、アリストテレスの主張はいかなる証拠にも依拠するものではないと反論する。そして「世界は永遠であるという見解から存在者は必然的に神に由来するという命題が結論される」(p.178)と主張するのである。マイモニデスがここで展開した神の存在証明は、アリストテレスの哲学が導入された後のキリスト教の哲学に大きな影響を与えることになる。
さらにマイモニデスはアリストテレス以来の「能動知性」と「受動知性」の概念対を使いながら、知識人論を展開する。知識人は神的な能動知性からの影響の度合いで主として三つに分類される。第一は賢者であり、これは論理的な能力において、能動知性から大きな影響を受けたが、想像的な能力では影響を受けることがなかった人々である。第二は政治家、詩人、占い師などであり、想像的な能力では影響をうけたが、論理的な能力では影響をうけていない人々である。第三が預言者であり、想像的な能力と論理的な能力の両面で強い影響をうけた人々である(マイモニデス『道案内』英訳版、第二部三七章)。こうした弁証法的な分類方法は、後の西洋にもうけつがれることになる。しかし預言者と能動知性。いかにもアリストテレスとユダヤ思想の「結婚」ではある(笑)。
著者の若書きであり、わずか一ケ月で書かれたというだけあって、書物の構成にかなり無理があり、反復や論旨の混乱があったりするが、これまで遠い人物であったマイモニデスの日常と、その思想的な課題、思考の道筋などが紹介されているのはうれしいことだ。
【書誌情報】
■マイモニデス伝
■A.J.ヘッシェル著
■森泉弘次訳
■教文館
■2006.7
■342,4p ; 20cm
■ISBN 4764266601
■定価 2800円