書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

ジョッシュ・ウェイツキン『習得への情熱―チェスから武術へ―』(みすず書房)

Theme 5 ひらめきを得るために

www.kinokuniya.co.jp

飛んでくる弾すらも静止して見え、相手の次の一挙手一投足が手に取るようにわかる――SF映画マトリックス』で、主人公ネオが覚醒したシーンである。

本書を読んでいて、何度となくこのシーンを連想させられたのだが、このような最高のパフォーマンス状態を著者は「ゾーンに入る」と呼び、(いわゆる火事場の馬鹿力のような生命の危機に瀕さずとも)自在に引き起こせるとしている。……と書くと、いかにも怪しげに感じられるかもしれないが、本書は、少年時代は映画『ボビー・フィッシャーを探して』のモデルとして知られたチェスの名手であり、長じてからは太極拳推手の世界選手権覇者ともなった著者が、自身のチェスや武術の学習の足跡を丁寧にたどり、そのプロセスや心理状態を徹底的に解剖した記録である。

この本は、一足飛びに能力を上げて、ごく一握りの成功者になるための魔法のような学習法を期待する向きにはおすすめできない。著者の眩暈がしそうな練習量や「負の投資」に圧倒されてしまうだろう。しかし、チェスと武術という一見何のつながりもない競技、それどころか、仕事や日常生活にさえ通底する、学びの喜び、ひたむきな基礎の積み重ね、今現在の自己を知ることに注目し、それらを大事にできる読者にとっては、パフォーマンス能力を上げるヒントに満ちあふれた、最良の指南書になるだろう。「覚醒」の日も遠くないかもしれない。

東京大学出版会 小室まどか・評)

※所属は2016年当時のものです。