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『主語を抹殺した男―評伝三上章』 金谷武洋 (講談社)

主語を抹殺した男―評伝三上章

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 刊行から半世紀たった現在でも版を重ねている『象は鼻が長い』を書いた三上章の評伝である。

 著者の金谷武洋はカナダのモントリオール大学で20年以上日本語を教えている言語学者で、日本語教育という実際上の必要に迫られて三上文法に関心をもったという。いわゆる学校文法では外国人学習者の質問に答えることができないのはもちろん、自然な日本語を教えることもできないからだ。三上文法が外国人の日本語学習にいかに威力を発揮するかは本書の第一章に生き生きと描かれている。

 三上は晩年に大学に職をうるまで「一介の高校数学教師」として暮らしたため、その学説は国語学会の主流からは長らく素人の奇説として黙殺されてきたが、年を追うごとに評価が高まり、現在では三上の後継者を自認する研究者がすくなからずいる。ただし、三上解釈は一様ではない。三上のテーゼでもっとも有名な主語廃止にしても、単なる戦略と受けとり、生成文法との折衷をはかる人もいれば、主語廃止こそ三上の最大の業績と考える人もいる。金谷は本書の表題を『主語を抹殺した男』としたことからも明らかなように、後者の立場の代表者で、すでに『日本語に主語はいらない』(叢書メチエ)、『日本語文法の謎を解く』(ちくま新書)、『英語にも主語はなかった』という「主語廃止三部作」を上梓している。

 金谷は「主語廃止三部作」という理論編を完成させた後、いよいよ三上の評伝にとりかかったわけだが、カナダ在住のために執筆は順調には進まなかったらしい。しかし、三上を知る多くの人の協力によって、本書がなったという。特に三上の伝記を準備していたが、本としてまとめることができなくなった高田宏氏は収集した資料を提供してくれたという。三上に対する敬愛がそれだけ深いということだろう。『言葉の海へ』の著者による三上伝はぜひ読んでみたかったが。

 さて、本書であるが、読んでいて引いてしまう部分がなくはなかった。三上の一挙手一投足まで褒めちぎるところがあって、評伝というより長いファンレターではないかという印象が否めないのだ。また、著者自身が前に出てきてしまう書き方にも抵抗がなくはなかった。みずからの三上体験を書いた第一章は感動的だが、評伝部分にまで著者が顔を出す書き方はいかがなものか。ただ、半分をすぎれば気にならなくなるので、これはこれで著者の持ち味なのかもしれない。

 なにはともあれ、三上の生涯についてまとまった本を書いてくれたことはありがたい。大叔父で『文化史上より見たる日本の数学』で和算を世界に紹介した三上義夫と同じような運命をたどった点は興味深かった。

 三上の晩年の条は読んでいてつらかった。ようやく評価されたのに、こういう運命は悲しすぎる。三上がハーバード大学に招聘されながら、すぐに帰国したというエピソードは、その昔、川本茂雄の授業で聞いたことがあって、ずっと気になっていたが、こういうことだったとは。

 本題から外れるが、本書でも橋本文法が悪役として登場するので一言。若い読者の中には橋本進吉の業績=橋本文法と誤解する人が出てくるかもしれないが、橋本文法は橋本の仕事の中では傍系だったと思う。橋本文法が駄目だからといって、橋本の仕事を全部否定するような誤解はしてほしくない。

 また、橋本門下が三上をいじめたというようなこともないと思う。本書では林大が三上をいちはやく評価し、東京に招いてICUで講演するお膳立てをするエピソードが紹介されているが、林は橋本進吉の女婿なのである。

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