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『抱擁』辻原登(新潮社)

抱擁

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「ゴシックとさわやか」

 こういう作品は近頃あまりない。

 とにかく綿密で隙がない。小説ではあるけれど、横から見たりひっくり返したりしながら造形美術のようにして味わってみたくなる。きっちりと準備された設計図があって、作品内にいくつもの論理の筋が通っていて、何より「ああ、この小説を書いた人はすごくちゃんとした人で頭もいいんだろうな」と思わせる。作品に良い意味での〝知性〟が溢れている。

 主人公は住み込みの小間使。彼女の「下から目線」で語られるいわゆる〝女中さん小説〟である。舞台となるのは日本でも有数の名家加賀前田家の邸宅「駒場コート」。現在は駒場近代文学館となっている実在の屋敷だ。時代は戦争前夜の昭和初期で、五・一五事件二・二六事件などを背景に何となく不吉な死の香りが充満している、そこに得体の知れない亡霊めいた存在が現れ、幼い「お嬢様」に近づいてくる…という展開になっている。

 こうしてみると、豪邸を舞台とした戦前の探偵小説の数々が思い浮かんでくる。道具立ても時代設定もそういう連想を意図したものだろう。また亡霊と無垢な子供のあやしい「交信」というと、ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』を連想する人も多いはず。物語を中立的な立場から伝えることになっている使用人が、実は誰よりも積極的に物語を動かしているというあたりの〝逆転〟はいかにもジェイムズ的だし、最後の一行などは、おそらく読書会などで扱うにはもってこい、どう読んだらいいのか十くらいの解釈が出てきそうである。まさに『ねじの回転』のあの妙な終わり方と同じだ。すべて作家の計算のうちだろう。

 ただ、大きく違うところもある。ジェイムズの作品の方は徹底的に官能に淫しているというか、ほとんど変態的で、何だかわけのわからない執着に突き動かされている。その気持ち悪さが読み所にもなっている。「この作家はきっとかなり変な人だ。頭はいいのかもしれないけど…」という印象。対して辻原の方は、むしろそういう息詰まる感じからさらっと解放してくれる。まるで作品の中を風が吹き抜けるようで、哀切感とも虚脱感ともつかない情趣と、広々とした見渡しの自由さとをまじらせた心地へとこちらを導く。

 いわゆるゴシック趣味の小説では、弁士たる語り手の饒舌さやいかがわしさと「付き合う」というのが読者の心持ちとなる。やたらと熱気があって興奮していたり、押しつけがましかったりくどかったりする語り手。ジェイムズでもポオでも、ウォルポールでもメアリ・シェリーでも、乱歩でも高太郎でも虫太郎でも、たぶんこれは共通している。

 もちろんそれは「ありえない物語」を語るための敷居のようなもの。そこを越えてつきあえれば、ようこそ、こちらの世界へ、と中に導きこまれる。ところが、この『抱擁』の語り手はそういういかがわしさとはそれほど縁がないように思える。ですます調のへりくだった態度にはたしかに〝過剰さ〟が読めなくもないし、前田家のお屋敷を「東洋一」などと讃えつづけたり「パジャマ」のことを「ピジャマ」と言ったりするあたりは、ん?と思わせないではないが、語り口の全体にふつうの意味での〝品〟がある。多くのゴシック小説でことさらひけらかされる上流階級臭とはひと味ちがう。

 とりわけ物語が佳境にさしかかるところがいい。この主人公、言葉の使い方についてはとても抑制的なまじめな人で、やたらとよけいな比喩を使ったり、洒落た言い回しで煙に向いたりということもない。だが、「いよいよ何かが起きる!」というところでだけは急に仮面を脱いだように一歩前に進む。

 コートをひとりで歩き回るという行動は、わたし自身の心の中を散歩するという側面も含まれています。

 こうして、散歩を重ねるうち、決行の時が近いことを予感し、心が昂揚してゆくのを覚えました。不遜なことを申しますと、クーデタを起こした将校さんがたの心持ちも、このようなものではなかったでしょうか。もちろん、あのかたたちのお庭は、わたしなどと較べものにならないほど広大なものだったでしょうけれど。

 そして、決行の日、その庭はぎりぎりの狭さまで縮められたはずです。

「心の中を散歩する」という科白はとっておきのものだ。まさに作品世界をひと言で表す言葉。ふっと読んでいる者の認識をずらす。この小説の庭はさまざまな出来事の起きる重要な場所だが、こういう一節に描かれるときには、「どうだこれでもか!」とばかりに濃厚な象徴性を担うわけではなく、小説世界を外にむけてひらりと開くような通過装置/チャンネルとして機能している。庭にいることで、どこか別世界にいることができる。庭とか家とか過去といった求心的かつ閉塞的なゴシック仕立てをふんだんに使いながらも、むしろ「そうではない場所」とか「自分の知らない人」といったものに想像力をはせる感覚を思い出させてくれる。この小説は、そういう場所をうまく想像させてくれる作品なのである。

 抑制された言葉を語りつづける主人公は、語り手としては自分の生理や心理についてとても抑圧的である。ただ、ある段階からそれが変わる。お嬢様の緑子がなついていたゆきのという使用人と自分との関わりについて語り手が次第に目覚めていく。鍵となるのは、タイトルの元となっているある英語の言葉(某現代イギリス作家の作品名でもある)。この言葉の担う多義性が、ラストのシーンの複雑さともからんでくる。

 そして、忘れてはいけないのは家庭教師のバーネットさん。物語の要所でタイミングよく登場して「お知恵」を授けてくれる。探偵のいないこの小説でミステリーには欠くことのできない進行役のような役目を担ってくれる。ドラマ化するならとても重要な役柄となりそうだ。小説中でもなかなか良い味を出している。もちろん、実はこの人が怪しいのでは?という見方もありかもしれない。

 こうしたゴシックミステリー風の筋立てを二・二六事件のような政治的な事件と正面から重ねるというと、それこそかなりフルボディの渋重い作品になりそうなものだが、読んでみるとそんなことはない。とてもさわやかなのだ。むしろ、そうした出来事が何と言うことのない日常のいちいちと同じ地盤の上に起きているのだという、小説的な「常識」を再認識させてくれる。

 書き手の「変さ」が露出した小説というのもいいものだが、こんなふうにしっかりと正気の書き手によって丁寧に計算された言葉の世界に酔ってみるのもいい、それも必ずしも目指すところが謎解きではないところがかえっていいなと思わせてくれるスマートな作品である。


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