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『雲をつかむ話』多和田葉子(講談社)

雲をつかむ話

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「つべこべの行方」

 筆者のまわりにも多和田葉子ファンがけっこういて、そういう人たちは『雪の練習生』を絶賛する。あれを読んでしまうとホッキョクグマに対し、もぉ、ただではすまないような感情が湧いてしまうのだ!とみな熱弁を奮う。

 たしかに『雪の練習生』はいい作品だと思うが、でも、ちょっと傾向を異にするこの『雲をつかむ話』だってぜんぜん負けていないし、下手をすると勝ってしまうかもしれない、少なくとも引き分けには持ち込めそうな気がする。ただ、この作品にはホッキョクグマに盛り上がるのとはちがう入り口が必要なだけだ。

 そもそも『雲をつかむ話』は「入り口」そのものにかかわる作品である。冒頭部は降って湧いたようなまったく唐突な一文から始まる。

 人は一生のうち何度くらい犯人と出会うのだろう。犯罪人と言えば、罪という字が入ってしまうが、わたしの言うのは、ある事件の犯人だと決まった人間のことで、本当に罪があるのかそれともないのかは最終的にわたしには分からないわけだからそれは保留ということにしておく。(3)

 実は、ここには周到な「謎」が仕組まれているのだが、でも、はじめのうちは我々はそれが「謎」であることに気がつかない。読み進むうちに「そうかあ、あれは謎だったのかあ」と後から腑に落ちるという仕掛けになっている。キーワードは「犯人」。このあと、作品には続々と犯人が登場するのである。「事件」を差し置いてまず「犯人」が出てくるというあたり、ふつうの小説とはちがうのだが、おかげで楽屋裏から「事件」をのぞき込んでいるような、自分だけが特等席から物語を盗み聞いているような、密やかで特別な気分になる。ひょっとするとこの物語を知っているのは自分一人なのではないか?なんていう錯覚すら起きる。

 ところでこういう冒頭部、人によっては「この作家は最初からつべこべ言うなあ」という印象を持つかも知れない。たしかにそのとおりで、多和田葉子という人は「つべこべ言う作家」なのである。でもそれは饒舌体というのとは違って、余分さや無駄はない。甘えもない。むしろ倹約的で、贅肉がなくて、自分に厳しい文章である。この人の「つべこべ」は細部を書きこんだり描写をふくらませたりして安心感のある物語的クッションのようなものをこしらえるために行われるのではなく、むしろ物語と上手に距離をとるためのものなのである。冒頭部の「保留」ということばに表れていたように、対象からちょっと離れて、語りがぷわっと浮かんでみるための「つべこべ」なのだ。

 たとえば第四章は語り手がある文学祭に招待されたときの変な体験を書いている。高校の先生によって企画されたイヴェントなのだが、作家たちが到着してみると、宿泊するのは古びた居心地の悪そうな養老院。ゲストたちも不満を持つ。と、そんな冴えない気配からはじまった話に次のような一節が挟まれて、世界の底知れなさがちらっと見えたりする。

 時計を見て「もう集合時間だ」と思ったのと、自分の上着に珈琲のしみがあることに気がついたのが同時だった。いつものことだ。あわてて部屋に戻って石鹸を塗って湿らせたハンカチで叩いたが、しみは落ちるかわりに広がっていく。自分の家ならば、「しみ悪魔」(フレツケントイフェル)という名前のしみを落とすための製品を使えば落ちるのだけれど今はそれもない。「しみ悪魔」という商品名が一度思い浮かぶと、そのスペルがしみのように脳にこびりついて消えない。そもそもなぜ悪魔が出てくるのか。まさか、あらゆるしみは悪魔の精液であるとでも言うのか。いつの間にかドレスにしみがついていることに気がついた時、人は恥じる。悪魔と交わってしまったことを秘密にしていたと思われるのが恐くて恥じる。(67-68)

 まさかそんな話になるなんて、と読んでいる方は思う。語り手が「保留」的思考を盾に、上手に物語と距離をとってつべこべ言っているからこそ可能な芸当である。そしてこのあと、やっぱりほんとうの「犯人」が登場するのだ。ほんとに、びっくりだ。

 多和田葉子の文章は立ち止まらない。はじめから動いている。はじめから構えがない。内容よりもまずリズムが聞こえてきて、ふと気づくと何頁か読み進めているという読み方をしてしまっていいのだ、きっと。だから作品の冒頭や、各章の頭も、あらためて「さあさあ、みなさん」と大上段に構えるのではなくて、はじめから等身大で、身近で、すぐ接続可能になっている。次から次へと新しいエスカレーターに乗り移るようにして読み進めることができる。まるで目がまわるような感じだが、それが実に楽しいし、エスカレーターを乗り換えるたびに少しずつ束縛から解放されていくような、軽躁状態のような高揚感が生まれる。

 第七章で出てくる「犯人」はオスワルドという。冒頭は例によっていきなりああだこうだと考えにふけるような「つべこべ」から始まる。

 双子だとは知らなかったので、しばらくは混乱させられた。今から考えると、初めにみたのはオスワルドだったということになる。わたしはフリードリッヒ通りで路面電車に乗った。駆け込み乗車してきた女性の荒い息、線路のきしむ音、窓枠に切り取られる町並み。(126)

 やがて路面電車に「犯人」が登場する。我々は「まさかこんなところにも犯人が仕組んであったなんて!」という爽快な驚きをおぼえる。しかし、そこで油断してはならない。この犯人オスワルドがほんとうの姿を現すのはもっと後だ。いったいどんな人なのか。実に印象深い一節がある。

 オスワルドは怠け者ではなかったが、書類を期限内に提出するのが苦手だった。書類に自分に関する情報を書き込むのが何より嫌いで、細かい線で紙の表面が区切られているのを見ているだけでいらいらしてきて、その線を無視して、斜めの線を何本も引きたくなってくる。縦横の線のこちら側に閉じ込められてたまるか。格子のように見える葦だって、風が吹けばなびくだろう。なびいてみんな斜線になれ。(146)

 いったいどうしてこんな気持ちのいい文章が書けるのか、と感心する。つながりの妙の軽やかさ。スパイスのきいた斜めの視線にこめられたひねり。にもかかわらず、どこかに向けて、しっかりこちらを導いていく強さまである。

 『雲をつかむ話』にはいろんな人物が出てくる。そこでひとつ気づくのは、男女のねちねちした関係よりも、女と女のどこか調子っぱずれで素っ頓狂な付き合いが前面に出てくることである。第八章のブリッタもそんなひとり。語り手とは腰痛体操の教室で知り合った。日本語の文法に興味があるとかで、小説家であることを隠して「日本語の文法を教えています」と名乗った語り手に、輝く瞳で「素敵ですね」と近づいてきたのである。そのブリッタに付き合って日本映画を見に行ったときの描写が、やけにおもしろい。

 ブリッタが日本映画だというだけの理由で選んだのはとんでもない映画で、髪を短く刈りあげた筋肉質の男たちが駐車場で腹を殴り合ったり靴で股を蹴り上げたりしていたかと思うと、今度は縄で縛られた男の胸毛に包まれた小さな乳首が裁縫ばさみで切り取られたりして、それでもまだ満足できないのか、風呂に入っている男の腹が刺され、腸が湯の中にこぼれでたところで、ブリッタがうっと吐きそうになって口を手の平で押さえて、映画館から飛び出してしまった。わたしはせっかく払った入場料がもったいないのでブリッタの後を追わずに映画を最後まで観てから家に帰った。(160)

 こういう箇所が不釣り合いなほどに精彩を放ってしまう、そんな細部の唐突な突出感が『雲をつかむ話』の魅力のひとつなのだ。全体を覆う世界の気配はむしろ鬱っぽいというか、灰色でメランコリックなものであり、その正体は最終章の女医との会話で明かされるのだが(ここにも女同士の妙な関係!)、部分部分には今にもはしゃぎ出しそうな陽気さが詰まっている。躁と鬱とが絶妙なバランスをとっているのだ。ふたつの要素が牽制し合うようにして、お互いつかずはなれず距離を保つ。だから語り手も決して物語に深入りはしない。物語とはきっと本質的にメランコリックでロマン主義的なものなのだ。そういう物語の鋳型にはとりこまれずに、なお物語を語るというのは、ほんとうに離れ業のように思える。しかも最後にはしっかりつじつまが合うのである。結末近くで発せられる、語り手の親友の女医による決めぜりふは、何しろ多和田葉子だから涙を流すというようなウエットな雰囲気では決してないのだが、やっぱりちょっと感動してしまうのであった。

 ところが女医はわたしが危険な目にあうのが絶対に嫌なのである。「危険を避けていたら、面白い体験はできない」と言ってみると、恐い顔をして、「面白い話は他人のものでしょう。あなたの話ではないのだから。それを奪って商売するのですか。あなたの人生は退屈で幸福なものであっていいのです」と答えた。

 わたしは唖然となった。確かにわたしはその人たちと出会って、まるで自分のことのように人間の中に入っていった。しかし、わたしが一方的に入っていったと感じているだけで、女医の言うように、彼らが他人であることに変わりはない。そうやって危ない境域をさまよっているうちに、わたしの方が足を踏み外して落ちることもあるだろう。それを密かに期待しているわたしは、慢性の自殺未遂を試みているようなもので、だからこそわたしと似た人たちを引き寄せてしまうのだろうし、そういう状態を女医は風邪と呼んでいるのかもしれない。(254-255)


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