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プロの読み手による書評ブログ

『トモスイ』高樹のぶ子(新潮社)

トモスイ

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「高校生の危険な読書」

 筆者は某高校国語教科書の編集委員をしている。この委員会をまとめる隊長役の編集者の女性はまったくもって体育会系のひとで、朝五時半に起きてぴょんぴょん跳ね、テニスのスマッシュ練習をし、それから会社に来るらしい。真冬でもマッ冷たいペットボトルのお茶をがぶ飲みし、「おい、あんたたち編集委員、どんどんピースを探してこい、ピースを!」と熱く檄を飛ばしている。「ピース(piece)」とは教科書に載せるための作品のことだ。しかし、筆者などがいくら作品を持っていっても、十本中十本はボツになる。これまでボツになったものはきっと数百…。

 それですっかり困り果てていたときに手に取ったのが、書店にならんでいた「新潮」であった。本書の表題作「トモスイ」が載っていた。お。なかなかいいではないか。高校生に読ませたくなるような、何とも言えないおおらかな風情がある。いきなり「ユヒラさん」などという国籍不明、性別不明、性格不明の人物が出てきて、底にガラスの張ってある舟で語り手の女性と夜釣りに出かける。いわゆるリアリズムのようで、ちょっと違う。メルヘンとかファンタジーともいいきれない。やけに生々しい描写があったりする。

 わたしがユヒラさんを気に入っている理由の一つは、ユヒラさんがあまり匂わないことだ。一度何かの折にキスしたことがあって、今もそれは大した出来事ではないと思えるのは、唇も口も顔も体も、男の匂いがしなかったからだ。強いて言えば、ブロッコリーを茹でたときのような、濃い目のお湯の匂いがした。(12)

そうだよね、あのブロッコリーを茹でたときの、つまりブロッコリーそのものの匂いじゃなくて、あのお湯の方の匂いだよね、と筆者は頁を繰る手をとめ、じわっとこの一節を見つめながら鉛筆でぐりぐり記しをつけてしまったりする。こういうところこそ、高校生に読ませたい。世界とこんな形で面と向かう方法があるのだよ、と教えてやりたい。ブロッコリーを茹でたときのお湯の匂いにこだわって一向に構わないのだよ、男には男の、女には女の「匂い」があるのだよ、どっちでもない「匂い」もね、しかもブロッコリーの「匂い」も男の「匂い」もくんくんかげばいいというものじゃありません……などと。

 しかし、ここで筆者はあの体育会系編集者の顔を思い浮かべる。彼女の手には真冬なのにマッ冷たいペットボトル。彼女はきっと言うだろう。「センセイ、いけません。これは学校の教科書なのです。だいたいわけもなくキスしちゃったりして、教室のセンセイがどう教えていいか困るじゃありませんか!」

 そういう言われてみるとそうだ。この短編にはいちいち微妙な表現が出てくる。ユヒラさんの様子は「髪もふんわり丸く刈っていて、身体は小さいくせに手足の末端ばかりごつごつと大きく、けれど胸のあたりや下腹部は女のように肉付きが良い」とのこと。風景も「長々とした岬が灰色のシルエットを濃くしながら近付いてきた。女が足を放り出している形状だ。先端はつま先が盛り上がっていて、腰のあたりは霧に絡まれていて見えない」といった具合。

 まあ、高校生ごときにはこういう部分の味はわからないだろうな、青いな君たち、と思ったりする。でも、だからこそ、どうしてここが「女が足を放り出している形状」であって、決して「男が足を放り出している形状」ではないのか、考えさせたい誘惑にも駆られる。

 そこで再び件の編集者登場。「あたしだって、こういう小説大好きなんです。こういうのこそ、載せたいのです。多和田葉子のわけのわからない短編とか、下手すると西村賢太だって大好きで、同居人と一緒にロマンスカーの中で『くぅううう』とか唸りながら読んじゃうんです。もっと変な小説をどんどん入れたい!でも、いろいろあって無理なんです。くやしいっ!」とペットボトルを地面にたたきつけるのである。

 筆者も悔しい。教科書や入試問題に頻出する勿体ぶったつまらない評論より、はるかに時間をかけて読む甲斐のありそうな、特別な瞬間がこの作品にはある。

「さてと」

とユヒラさんが深い息をつく。あとは待つだけですな。

 さてと、のあとに、そろそろ死にますか、なんて言われたらどうしようと思っていたので、とりあえずほっとした。ユヒラさんはときどき、その場の空気をひっくり返してとんでもないことを言う。幼いときに貧乏をしたからこういう素直でない性格になってしまったと言うが、それは自分の育ちへの難癖いいがかりで、あるがままのものが見えていないフリをするのが好きなだけで、それほど悪い性格とは言えない。家族の写真だって、ウソだと思わせようとしているだけで、やっぱり本物の妻であり子供であるのかも知れないし。(16)

「あるがままのものが見えていないフリをするのが好きなだけで、それほど悪い性格とは言えない」なんていう言い方で話をつなげるのが小説の語り手の技量というものだ。もちろん高樹のぶ子の才能でもある。「死」「貧乏」「育ち」「性格」「家族」といずれも〝教科書的〟な話題だが、これを下手な評論的語り手が語ったら、おそろしくつまらないことになる。続く部分もいい。

いつかずっと長く生きて、まだユヒラさんと付き合っていたなら、是非言ってあげたいと思っているひと言がある。男でいるのもイヤだ、女になるのもイヤだなんて、この世のすべてのものに変身するより難しいんだよって。それでも誰かと溶け合うのが理想ならば、自分が無くなってしまうほど、遠くまで行かなくてはならないんだよって。体力も気力もお金もないユヒラさんにそんなこと出来る?(16)

まさに小説的思考である。小説という言葉だからこそ発生してしまう、奇跡的な瞬間なのだ。しかし、教科書というのは、たとえば「男でいるのもイヤだ、女になるのもイヤだなんて、この世のすべてのものに変身するより難しいんだよって」というあたりに線を引いて、「ここでは語り手は何を言おうとしているのでしょうか?」なんてトンチンカンな問いを立て、高校生を永遠に小説的思考の世界から遠ざけてしまう。何と因果な。立てられねばならないのは、「ここでは言葉にいったい何が起きているのですか?」という問いなのに……。教室のセンセイこそ気の毒だ。「トモスイ」が教科書に載らないのも、そういう意味ではこの作品にとって幸福なことなのだろう。

「で、トモスイって、何なんですか?」と隊長編集者は訊いてくるかもしれない。筆者は答えるだろう。「これはすごいですよ。最後に出てくる変な魚類なんですけど、触るとくすぐったがったりするんです。それをふたりして食べる、いや、吸う。こんな濃厚な場面、見たことないです。でも、高校生にはよくわからないと思います。ちょっと不純異性行為に走ったくらいの辻堂あたりのつっぱりあんちゃんには、この味わいはわからない。だから、そういう意味では教科書に載せても安全です。でも、この部分がまったくチンプンカンプンだったら、この小説を読んでも意味がないとも言えますけどねっ!」。筆者には想像される、今頃きっと隊長編集者はロマンスカーに乗って、トモスイが出てくるクライマックスの部分を、しゃぶるようにして読み耽っているだろう。そして「くやしいぃ!」とつぶやいているのだ。

『トモスイ』には十の短編がおさめられている。みんな文体もモードも違う。作家がアジア各地を旅して、そこで浴びてきたものをそれぞれ小説化したとのこと。たしかにどの作品も、作家自身のもっとも居心地のいい文体からあえて少しだけ逸れることで、言葉というものと異邦人のようにして付き合おうとしているのかなという読後感があった。

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