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プロの読み手による書評ブログ

『対訳 イェイツ詩集』高松雄一編(岩波書店)

対訳 イェイツ詩集

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「〝老い〟という解放」

 英語の詩を読みたい。ひとりだけ選ぶなら、どの詩人がよろしいか?


 ときにこんな質問をもらう。しかし、「ひとりだけ」というのはなかなか難しい。英詩人は個性派揃いなので、できれば軟派から硬派、閑寂から疾風怒濤、変態系からまじめ派まで合わせて読んでもらうのが一番である。でも、とてもそんなヒマはないというなら、では、誰から始めるべきでしょう。

 そんなときに筆者が勧めるのはまずはシェイクスピアの『ソネット集』である。何しろエリザベス朝の詩人だから英語の使い方は古めかしいし、初心者にはやや変態度も強すぎるかもしれないが、とにかく言葉の甘さが圧倒的なのだ。頭がくらくらするほどで、読むだけで虫歯になりそうな気がする。訳や注釈がいろいろ出ているのも助けになるし、これだけ読んでおけば、まあ、「英詩をかじりました」くらいのことは言えるだろう。

 ただ、実は人によっては初体験はこちらの方がお気に召すのではという詩人がいる。アイルランドの詩人W・B・イエイツである。イエイツは若い頃は〝うっとりなめらか系〟の詩人だった。朝だか夜だかわからない黄昏の空気が世界を覆い、うつらうつらとしているうちに、妖精が出てきたり、蜂がぶんぶん飛び出したり。ああ、哀しい、ああ、切ない、ああ、心地良い、と思わせてくれる詩を書いていた。日本でも昔から人気があるのは、この時期のイェイツ作品である。

 しかし、イェイツがもっとおもしろくなるのは、中期、そして後期である。〝うっとりなめらか系〟の詩人が、中年期になるとだんだんイライラしてくるのである。このイライラには焦燥感やら冷笑やら怒りやら自己嫌悪やらいろんな感情が混入していて、おかげでイェイツが元々得意としていた哀切感や甘さの表現にぐっとコクが増してくるのである。とりわけ大事なのは〝老い〟の自覚である。たとえば「釣師」という作品は、幻の釣師のために詩を書こうという宣言とともに終わる詩で、そういう意味では英詩人によく見られる「所信表明の詩」となっているのだが、そこには「老いぼれるまえ」にという焦りが入っている。

そうして私は叫んだ、「老いぼれるまえ、

この男のために一篇の詩を書こう、

おそらくは夜明けのように冷たくて

情熱にあふれる詩を書こう」と。

……
And cried, 'Before I am old
I shall have written him one
Poem maybe as cold
And passionate as the dawn.'(124-127)

 だから詩も、老いつつある中年男ならではの独特の感情を孕んでいる。'as cold/ And passionate as the dawn'(「夜明けのように冷たくて/情熱にあふれる」)というのは、まさにこの時期のイェイツを象徴する表現なのである。冷たいけれど熱烈で、冷笑と興奮との狭間にあって、怒っているんだか喜んでいるんだかわからない、泣いているのか笑っているのかわからない、そういう詩が書かれるようになる。

 おそらく背景にあるのは、イェイツにとっての永遠の女モード・ゴン(Maud Gonne)との関係の変化である。イェイツは写真で見るとなかなか男前だが、モード・ゴンという女性も相当な美人だった(http://www.websters-online-dictionary.org/definitions/Maud+Gonne?cx=partner-pub-0939450753529744%3Av0qd01-tdlq&cof=FORID%3A9&ie=UTF-8&q=Maud+Gonne&sa=Search#922など参照)。イェイツはこのモードにゾッコンになり、永遠の美女として何度も詩に登場させている。ところがモードの方はイェイツをまったく相手にせず、三度のプロポーズを断ったあげく革命家と結婚してしまった。ふたりがあっという間に離婚したのを見て、イェイツはさっそくモードに再求婚したのだが、またまた「ノー」の返事。ついにイェイツはモードの娘にまでプロポーズするが、これもうまくいかなかった。

 しかし、モードに言わせれば、「あたしが拒絶しているおかげであなたは詩を書けるんじゃないの」ということなのである。たしかにそうかもしれない。モードにふられつづけたイェイツは50歳過ぎまで独身で通すが、この「ふられ男のパワー」のようなものがイェイツの詩の原点にはある。革命運動に入れあげたモードは美人は美人だが「あたし、ぐちゃぐちゃ物事を考えるの好きじゃないのよ」などと言う人でもあり、イェイツとは性格が正反対。拒絶することでこそ、イェイツの詩作に貢献したのだとも言える。

 そんなモードとの長いかかわりをへて中年期のイェイツは「イライラ」を発見するわけだが、それは恋愛感情の摩耗ともかかわっていた。イェイツは「モードにふられても前ほどがっかりしない自分」に愕然とするのである。'The Wild Swans at Coole'(「クールの野生の白鳥」)などは、かつてモードにふられて湖の畔でしんみり白鳥を数えたけれど途中でみんな飛んでいってしまった、その同じ場所で、19年をへてまたまた白鳥を数えるという詩なのだが、近眼のはずのイェイツが今回は59羽ぜんぶ数えきってしまったなどというほとんど嘘っぽい設定にもかかわらず、その執念深さのメランコリーが実に味わい深い。対象の喪失よりも、喪失を喪失と感じなくなっていく自分にイェイツは敏感になっていくのである。

 恋愛から自由になった人はしぶとい。不思議なことに、イェイツは年をとればとるほど生命力を増したのである。表向きはしきりに精力の減退を嘆いているが、言葉そのものは若さから解放されてむしろ生き生きとしている。後期イェイツの代表作に「小学生たちのなかで」('Among School Children')という拍子抜けするようなタイトルの作品があって、内容としては、まあ、「詩人はみずからの人生や肉体を犠牲にして、美を生み出すべきなのか否か」というイェイツならではのテーマを中心に据えているのだが、いちいちの連でぎゅっとつまった思弁が繰り広げられていることもあり、なかなかさらっとさわやかに読めるものではない。ところが先に進むにつれ、そのぎゅっとつまった怨念のようなものが段々と煮詰まり、最後は怒りとも悲しみとも喜びともつかない高揚感とともに、ほとんど爆発せんばかりの力が発散されるのである。

魂を喜ばせるために肉体が傷つくのではなく、

おのれに対する絶望から美が生まれるのではなく、

真夜中の灯油からかすみ目の智慧(ちえ)が生れるのでもない、

そんな場所で、労働は花ひらき踊るのだ。

おお、橡(とち)の木よ、大いなる根を張り花を咲かせるものよ、

おまえは葉か、花か、それとも幹か。

おお、音楽に揺れ動く肉体よ、おお、輝く眼ざしよ、

どうして踊り手と踊りを分つことができようか。

Labour is blossoming or dancing where
The body is not bruised to pleasure soul,
Nor beauty born out of its own despair,
Nor blear-eyed wisdom out of midnight oil.
O chestnut-tree, great rooted blossomer,
Are you the leaf, the blossom or the bole?
O body swayed to music, O brightening glance,
How can we know the dancer from the dance? (240-241)

'O'とともに呼びかけの入る最後の四行など、英詩ならではの〝泣き〟というか、小節を感じさせるが、そこで語られるのは単なる哀切感や甘い酔いではない。「踊り手と踊りを分つことができようか」の一節は、詩人は単なる職人であっていいのか?自分の人生を生きなくていいのか?との強烈な問いを悔恨と絶望と昂揚とともに突きつけてきてたいへん力強い。まさにcold and passionateとでも呼びたくなる、節くれ立った興奮なのである。

 そんな節くれ立った生命力が最後の輝きを見せるのは、この詩選集でももっとも後の方に収録されている、詩人最晩年の作品「サーカスの動物たちは逃げた」('The Circus Animals' Desertion')だろう。もう自分には詩は書けない、自分のまわりにはかつて詩の中に登場させたものたちががらくたとなって散らばっている、という詩である。そのかつての登場人物たちに取り囲まれた詩人がいよいよ地面に横たわるという最終連はとりわけ感動的だ。

完璧だからこそ横柄なこれらの幻像は

純粋な精神のなかで育った。だが、もともとそれは

何であったか? 屑物(くずもの)の山、街路の塵芥(ちりあくた)、

古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキの缶、

古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて

喚(わめ)き立てるあの売女。私の梯子(はしご)が消えた今は

あらゆる梯子が始まる場所に、心という

穢(けが)らわしい屑屋の店先に寝そべるほかはない。

Those masterful images because complete
Grew in pure mind, but out of what began?
A mound of refuse or the sweepings of a street,
Old kettles, old bottles, and a broken can,
Old iron, old bones, old rags, that raving slut
Who keeps the till. Now that my ladder's gone,
I must lie down where all the ladders start,
In the foul rag-and-bone shop of the heart.(312-313)

 この最後の連のぐしゃぐしゃぶりはどうだろう。とくに'Old kettles, old bottles, and a broken can,/Old iron, old bones, old rags, that raving slut/ Who keeps the till.'(古い薬缶(やかん)、古い空瓶(あきびん)、ひしゃげたブリキの缶、/古い火のし、古い骨、ぼろ布、銭箱にしがみついて/喚(わめ)き立てるあの売女。)というところなど、かたかたと乾いた音が聞こえてくるかのようだ。無機質で死を予感させる音なのだが、やけに元気でもある。お祭りのようでさえある。干涸らび、枯渇し、もう何もないかもしれないというのに、それをお祝いしている。絶望しながらも喜んでいる。まさにイェイツの老人的生命力の極みではないかと思う。

『イェイツ詩集』中林孝雄・中林良雄訳(松柏社 1990)、『W・B・イェイツ詩集』鈴木弘訳(北星堂 1992)、『イエイツ詩選』尾島庄太郎訳(北星堂 1997)、『イエイツ詩集』加島祥造編訳(思潮社 1997)など、近年も新訳の出続けているイェイツは、当分「気になる英詩人リスト」の上位を占め続けることになりそうだ。


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