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『対訳 ディキンソン詩集』エミリー・ディキンソン作・亀井俊介編(岩波文庫)

対訳 ディキンソン詩集

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「ディキンソンの性格」

 筆者は、ディキンソンという詩人は昔からどうも苦手だった。頑固でマイペースなのはいいとして(詩人なんてだいたいそうだ)、言いたいことがあるわりにいつまでも口をつぐんでいて、こっちが「どうかなさいましたか?」と言うのを待ってるようなところがどうも面倒くさいのである。もっと、どんどんいきましょうよ、歌いましょうよ、食べましょうよ、と言いたくなる。

 でも、授業でアメリカ詩をやるとなると、やっぱりとりあげないわけにはいかない人だ。仕方ないから、いかにもこの詩人らしいなるべく陰気な作品を2、3選んで(自分で自分の葬式の場面を想像しながら実況中継するとか、「後悔」とは何かについてじくじく考えるといった詩)、なるべく足早に通りすぎるのである。

 ところが、学生さんの間でディキンソンは意外に人気なのである。ホイットマンよりよほど好まれている。短いからいいのか、陰気な人の方が共感しやすいのか、「ひきこもり」というのがアピールするのか、そのあたりはよくわからないのだが、そういうわけだから、今年の演習では夏学期に「一学期分ほぼぜんぶディキンソン」という試みをやってみた。やっぱり陰気だった。でも、毎週毎週ディキンソンばかり読んでいると、陰気な中にもちょっとちがった輝きが見えてくる。

 たとえば「私は苦悶の表情が好き」('I like a look of Agony')という、実に暗い出だしの作品がある。

I like a look of Agony,
Because I know it's true ―
Men do not sham Convulsion,
Nor simulate, a Throe ―

The Eyes glaze once ― and that is Death ―
Impossible to feign
The Beads upon the Forehead
By homely Anguish strung.

わたしは苦悶の表情が好き、
真実なのだと分かるから―
人は痙攣の真似などしない、
激痛を、装ったりもしない―

いったん眼がかすんできたら―それはもう死です―
見せかけることなどできはしない
質朴な苦悩をつらねた
額の汗のじゅず玉を。
(亀井訳)

本書の注釈にもあるように、この詩は従来、ディキンソンの「真実」に対するこだわりの強さを示すものと考えられてきた。たしかにそういうふうに読める。しかも、そのことを妙に冷静な、奥深い意地悪さをたたえた皮肉な視点から語っている。ディキンソンの「偉さ」を示す重要な作品の一つと考えられてきた所以である。

 そういう意味では「私は苦悶の表情が好き」というタイトルも、一見するほど暗いものではないのかもしれない。むしろ心がおだやかに落ち着いていくプロセスとも読める。「私は苦悶の表情が好き → だって苦悶は嘘をつかないから → だって真実がわかるから → 真実がわかることこそ心の糧」と言えるようになるためには、それなりの達観の境地に達している必要があろう。

 しかし、それだけだろうか。いくらディキンソンが現代人の想像の及ばない「遙かなる人」だったからと言って、この詩人をいたずらに神格化するのはよくないのではなかろうか(亀井氏の強調するポイントでもある)。たしかにディキンソンは、150年以上前のニューイングランドで引きこもり同然の生活を送り、毎日詩を書くくらいしか楽しみがなかった女性だ。しかも、1700篇もの詩を書きながら生前に発表されたのはそのうちの10篇程度しかないという、これ以上ないほどの〝日陰者〟の人生を全うした。しかし、だからと言って、私たちが彼女のことを「ごくふつうの人」として理解してはいけないいわれはない。

 ディキンソン=「ふつうの人」説に則って考えてみよう。たとえばふつうの人なら「わたしは苦悶の表情が好き」なんてわざわざ常識外れのことを言うときには、やっぱり、相手の人が「え?」とびっくりし、どぎまぎする様を期待したりするのではないだろうか。それでうまくいくと、「うふ」と笑ったりするのではないだろうか。そこには相手をびっくりさせてやろう、煙に巻いてやろう、という茶目っ気が読み取れる。とするなら、ディキンソンって、意外とふざけた奴だったのかな?という考えもちらっと浮かぶ。だいたい'Men do not sham Convulsion'(「人は痙攣の真似などしない」)とか、'The Beads upon the Forehead/ By homely Anguish strung.'(「質朴な苦悩をつらねた/額の汗のじゅず玉を。」)といった部分など、Convulsion, Anguishといった用語もいかにも重たげだし、語りの言葉少なな感じもわざとらしくて、やりすぎのB級ホラー映画のようにも見える。この「やりすぎ感」も、ディキンソンの個性の一部なのだ。グロテスクマニアで、注目を集めるのもけっこう好きで、ほとんど子供っぽいようなところがあった人なのではないだろうか。あるいは、そういうふうに思わせるところも魅力なのではないか。

 こんなふうに感じられるようになると、ディキンソンとの付き合いが前よりちょっとだけ楽になる気がする。ディキンソンの詩作品ですぐ目につくのは、「定義詩」と呼ばれる一群の作品である。詩の冒頭が'A is...'という定義の形ではじまり、その定義を深め展開するためにいろんな比喩が繰り出される。要するに、定義すること自体が詩になっているのだ。この選集にも'Exultation is the going,' '"Hope" is the thing with feathers―'といった作品がおさめられている。

 ひたすら定義するなんて、辞書みたいな人である。いかにも杓子定規で退屈な人と思える。でも、ディキンソンの定義癖には、意外と素っ頓狂なところも含まれている。彼女の定義は、決してひとつの正解に達するために行われるわけではない。むしろ定義すればするほど、言葉がずれたり、変なイメージがわりこんできたり、それから一番大事なのは、定義しようとしている本人が、そんな作業のレールから外れて、何だか別の物語を語ってしまったりすることである。今あげた「『希望』は羽根をつけた生き物―」('"Hope" is the thing with feathers―')などもその典型だし、この選集には入っていないが、'Fame is a Bee'という作品もそうだ。

Fame is a Bee.

 It has a song―

It has a sting

 Ah, too, it has a wing.

名声とは蜂
 歌をうたうし
針があるし
 ああ それに 羽根もあるし

'Ah, too'とあるように、語り手はこの最後の行で思ってもみなかったことを口にしてしまう。蜂(Bee)はあくまで名声(Fame)を説明するために導きこまれた比喩だったのに、この比喩がほんとうに生命を吹き込まれて勝手にぶんぶん飛び始めるのだ。そんなふうに目の前を飛び出した蜂を見て、「あらら、飛んでる」と語り手本人がびっくりしている。まだ詩は終わっていないというのに。いや、この「びっくり」のおかげで詩が終わるのだ。一種の即興詩なのである。

 茶目っ気にあふれ、ちょっと子供っぽくて、悪のりも好き、しかもけっこう気まぐれ……そんなイメージが湧いてくると、毎日真っ白い服を着こんで家にこもった宗教的隠遁者という像も少しうすらぐかもしれない。どうだろう。これなら少しお付き合いしてみていいかな、という人も増えるだろうか。


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