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『きなりの雲』石田千(講談社)

きなりの雲

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 作家の中には見るからにおっかない顔つきの人がいる。下手に質問すると、イラッとした目つきで睨まれ「さっき言ったでしょ?」と露骨な不機嫌をつきつけられる。こういう人の作品もたしかにのぞいてみたくはなるが、ちゃんと読むにはそれなりの覚悟もいる。

 石田千の作品は対照的だ。エッセイ集も含めればこの十年に相当な数が刊行されているが、『あめりかむら』『月と菓子パン』『店じまい』『屋上がえり』『きんぴらふねふね』『踏切趣味』『踏切みやげ』『部屋にて』などのタイトルだけからもわかるように、イラッとしてこちらを睨むなどということはない。むしろすぐそこに、手の届くところに置いてあってほしい風情の本ばかりだ。

『きなりの雲』は著者の小説作品としては二冊目になる。280枚という長編はおそらくはじめて。連作のような構成だが、ぜんたいをつらぬく明瞭な流れがある。描かれているのは「回復」である。物語の冒頭、主人公望月さみ子は「失恋者」として登場する。恋人にふられ、その原因は自分にあったと後悔の念にさいなまれ、仕事も続けられなくなった。物もろくに食べられず、夜も眠れぬこと半年。ついに身体に変な斑点があらわれたところで医者を受診する。しかし、さみ子はここで言わば底を打った。

 本領はここからである。少しずつ、まるで植物が生長するような速度と静けさで、干涸らびていたものに水気が通いはじめる。凝り固まっていたものがほどける。物語上は途中、「武器密輸団」の登場に続いて「モトカレ」の再来があったりして大いに波乱はあるのだが、さみ子の生命があらためて温度を持ってくる様子は、今どき珍しいほど繊細な文体意識――書き手の呼吸が乗り移ったかのような文章――を通して語られる。それは一見こちらのガードを解くようなやわらかさに満たされてもいるが、それだけではない。冒頭部はこんな具合である。

水にひたしてひと月すると、しろい根がのびた。それからしだいにしわが寄って、かたく縮んでしまった。
 さらに二週間たった。アボカドの種は、桃太郎が生まれるように、ふたつに割れた。透けるほどやわらかな葉が二枚あらわれたのは、年をまたぎ、正月のにぎわいもおさまるころだった。
 寒い季節のうえに、スーパーマーケットの冷蔵の棚にあった実だったから、育つのはここまでかもしれない。そう思いながらも、水をとりかえた。すこしでも光のあたるところをさがし、置き場をかえていた。(7)
 石田千の著作に親しんでいる人ならわかると思うが、そのトレードマークは主語の省略である。しかし、一口に主語の省略といっても、効能はさまざま。『きなりの雲』でも、状況によって意味はぜんぜんちがう。この冒頭部では、「アボガドの種」や「さみ子」といった主語を所々で落とすことで、ひとつの文の中でも焦点がゆらゆらと行き交い、おかげで主人公やアボガドの葉や季節のめぐりといった話題が、まるで互い違いに生えだしてくるような交錯の感覚が生ずる。人間の営みが、その意志や感情も含めて、植物的な生育と重なる。

 それはたしかにやさしさに満ちた語りだ。石田千がもっとも愛する対象は本書にも多数登場するお年寄りや子供であり、その筆致に慈愛を読み取る人も多いだろう。しかし、その一方で、石田の文章には揺るぎない厳しさがある。おそらくこれは主語を書かないという衝動の根本にもある厳しさである。究極的には、語ることそのものが抑制されているのである。とりわけ「私が語る」ことが抑えられている。「私が思う」「私が考える」ことに対する躊躇、抵抗がある。

 書くことはセラピーだと考える立場がある。書くことによって、無意識や幼児性や病が解放される。書かれたものは汚物のような臭気を放つかもしれないが、それは書き手を救い、しかもおもしろいことに、読み手だって救済されることがある。私たちはこういう文学作法に長く慣れてきた。ただ、セラピーとして書かれるものに、紛れもない汚物として終わるものがあるのも間違いない。

 石田千が『きなりの雲』で描く「回復」はそのようなものではない。文学作品の中ではもはやあまり振り返られなくなった、「折り目正しさ」とか「あきらめ」とか「関係」といったものが、まったくふつうに大事にされている。汚物を吐き出すこともないし、何より「私は語る」「私は思う」といった私の主語性に酔わない。素面でいようとする。

 だから、石田千はリズムとの付き合いにとても慎重だ。文章というものは、書く人も読む人も酔わせるような麻薬のような作用を持つことがある。リズムに乗れば、語っている言葉そのものの慣性で語り続けることができる。雪崩のように、勢いが勢いを呼ぶ。石田千のエッセイにも、主語を省くことで日記風の軽快なリズムを生んでいるものはあるし、「あめりかむら」のちょっと熱気のある語り手もなかなかフットワークが軽い。しかし、10年前のデビュー作「大踏切書店」の味わいによくあらわれているように、石田千の語りはリズムに溺れるものではない。雪崩を打つどころか、いつぴたりと停止するかわからない。だから、独特の寂寥感を呼びこむことができる。「大踏切書店」のもっとも悲しい場面、呑み仲間のハルさんの死は次のように語られる。

三日前に来たのが、最後だった。湯どうふとコップ酒の用意をしたら、その日だけ、熱燗がいいといった。風邪ひいたから、熱燗飲んで寝るからという。湯どうふに葱をどっさり入れて出したら、あったまると喜んだ。帰りがけに、黒焼きにした葱を手ぬぐいでくるんで、首に巻いてあげた。ハルさんは夜寝られないといけないから本が欲しいといった。小さい字がいっぱい書いてあるのがいいといった。(中略)

 心配だったけど、送るというと怒るから、そのまま帰した。次の日の朝、起きてこないから、家の人が見に行ったら蒲団のなかで死んでいた。枕もとに、手ぬぐいにくるまった葱と本があった。本のうえにハルさんの小さな眼鏡が置いてあったという。話しながらふみさんの目はまっかになった。そしてすぐに、大往生だわ、立派よ、見習わなきゃとうなずいて、鼻をかんだ。(「大踏切書店」〈『あめりかむら』所収〉、165-166 )

 勢いをつくりながらも陶酔感から距離を置くのはなかなか難しい。語っている言葉の勢いに乗るのは容易なこと。でも、そのリズムを抑制するとなると、いちいち言葉を発し、またゼロから動き出さなければならない。そのためにはやわらかい呼吸が必要になる。『きなりの雲』でモチーフになっているのもまさにこの呼吸である。

 心身共に病から回復したさみ子は以前からつづけていた編み物の仕事を再開する。その過程で出会いがあり、別れがあり、恋人のじろーくんがひょろっと戻って来たりもするのだが、さみ子にとってもっとも大きなチャレンジとなるのは新潟の友人から届いた「きなり」の糸をいかに編み上げるか、ということだった。

糸にまかせてみて。玲子さんにいわれたとき、はたと気づいた。いままでの経験知識で、この糸のよさを消すところだった。
 糸にまかせてそのままで、じゅうぶん。頭にくりかえし、いいきかせながら、黙って手を動かす。流れる音楽も、きこえなくなっていく。
 十センチの正方形になったとき、試した編み地が、ふっくらと深い呼吸をした。
 光沢もしなやかさも、じゅうぶん伝わる。羊たちにほほえまれ、なんとかめどが見えた。これで、大丈夫。肩の力を抜いた。(114)
 そう。糸にまかせるのである。そうすると「ふっくらと深い呼吸」ができる。主語を落として、声をこもらせて、そうまでして「私が語る」のを抑圧するなら、もう語るのをやめてしまえばいいのになどとせっかちな人は言うかもしれないが、そういうことではない。言葉というものは、別に私が語らなくたっていい。言葉が語ればいいのだ。ちょうど糸が勝手に編まれてしまうように。

 ほんとにいいものは、「私は語る」の境地を越えたときにあらわれるのかもしれない。私ではなく、文章が、言葉が、まるで世界と互い違いに生えだしてくるように生成してくる。主語だけでなく、会話括弧や句読点といった区切りをもさりげなく落としていきながら、石田千の文章はたいへんしなやかな解放を目指しているのである。

(「群像」4月号(3月7日発売)で、著者の石田千さんにインタビューしているので合わせてご覧ください)


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