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『会社員とは何者か? ― 会社員小説をめぐって』伊井直行(講談社)

会社員とは何者か? ― 会社員小説をめぐって

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「立派にならない評論」

 文芸誌に一年以上にわたって連載された「会社員小説をめぐって」が本になった。変わった評論である。表題のとおり、とりあげられるのは「会社員」の出てくる作品ばかり。夏目漱石から源氏鶏太楡周平庄野潤三山口瞳坂上弘。より現代的なところでは池井戸潤津村記久子絲山秋子長嶋有盛田隆二カフカメルヴィルも出てくる。岩崎彌太郎も出てくる。あくまで「会社員」であり、「サラリーマン」ではないところがミソだという。

 実は筆者は何度かこの連載をのぞいたことがあったのだが、今ひとつ入り込めなかった。それが今、本になってみると、ほとんど同じ内容のはずなのに、以前とちがって何だか足下から吸い込まれるような妙な誘惑性がある。不思議な気分だ。しかも読み進めていっても「この本はいったいどこがおもしろいのか?」という疑問がいっこうに消えない。どうやら自分はこの評論をおもしろがっているらしいのだが、何がおもしろいのかがはっきりわからない。

 話題の中心はあくまで「会社員」、そして「会社員小説」である。何と地味な話題だろう。多くの人は「会社員」という言葉につきまとう、何ともくすんだ、何とも華のない気配に、どろんとした意気消沈の気分しかおぼえないかもしれない。「会社員とは何か」にしても「会社員小説とは何か」にしても、「負のオーラ」すら湧いてこないような鈍色の話題だ。

 しかし、著者の伊井直行はそのような私たちの感受性そのものを問題視する。私たちの多くが会社員であり、どこを向いても世の中は会社だらけのはずなのに、文学作品は会社や会社員のことをあまり書かないし、読者も読みたいとは思わない。これは変ではないか? そんなことでいいのか? 出だし近くで伊井がそんな問いから、一種の「糾弾の刀」を振りあげるかと見える箇所もある。

 結局、漱石の小説は、仕事や労働といったものを排除することで「純化」されており、その清浄な空間の内部で、登場人物どうしの人間関係の政治力学が発動されるのである。しかし、このことは何も漱石においてのみ特徴的なのではない、近代の小説はおおむねそのように書かれてきた ― これが強すぎる断定だとしたら、次のように言い直そう。近代小説においては、仕事や労働を前景化する小説はマイナーな存在とみなされるのが通例だった、と。中でも、会社勤めをする人間の労働については、無視することが暗黙のルールだった。(51)

なるほど。いかにも立派な議論の予感がある。「糾弾の刀」らしい正当性もあるし、何か陰謀めいたからくりが暴かれそうな気もする。ちょっと、どきどきする。

 ただ、もし本書が「純化」された小説の欺瞞を暴き、そうでない小説を称揚するというスタンスをとるだけだったなら、筆者は途中で本を閉じてしまっただろう。この10~20年の文学研究書にはそうした「立派な議論」があふれてきたが、そういうものは出来上がった議論の「型」に対象を入れこむだけで、あんまりおもしろくないのが通例だ。

 伊井の本がどこか変なのは、その先である。一見、議論の答えは早々に出てしまったかに見える。300頁ある本の50頁めあたりで、「労働の抑圧」というカードは切られた。そうか、人間関係に焦点をあてるという美名の元に、私たちの生活の本質的な部分であるはずの「労働」が抑圧されているのか。これで話の流れは決まったようなものだ。

 でも、そうではなかった。このあと伊井は「会社員とは何者だ?」「会社員小説とはどのようなものだ?」という、実は著者本人以外はあまり興味を持ちそうにない問題に執拗にこだわりつづけ、ときには「文学について語る小説は、規則の厳しいマイナー結社、会社員小説クラブに加入できない」などと外に壁を立てたりしながら、しかし、やけにしっかりした足取りで話を進めていく。その過程では、下手すると先の「立派な議論」を足下から崩壊させかねないような、身も蓋もないコメントも出てくる。

 庄野に、会社や会社員を小説にしても、作品として実り多いものにはならないという直観あるいは思慮があったことは間違いないだろう。会社に勤める人間を描いても、なぜだか滅多にいい小説にならないのである。この「なぜだか」を鮮明にしようとして小論は書かれているのだが、まだ答えを出すには至らない。(145)

 何だ。「労働」が描かれないのは、抑圧されているどころか、単におもしろくないからではないか。何と簡単な答え! しかし、伊井はそうは言ってない。「この『なぜだか』を鮮明にしようとして小論は書かれているのだが、まだ答えを出すには至らない」などとつぶやきながら、平然と先に進むのである。この人はいったい何を目指しているのか。

 どうやら本書の変な感じは、著者が自分のこだわりを(おそらく意図的に)読者に共有させずに話を進めるところから来ているように思う。象徴的なのは、冒頭近くで描かれる「熱を出したまま出勤してうたたねしていたら、頭をはたかれてすごく変な気分になった事件」(23-24)だ。著者はそのとき自分の頭をはたいた課長の手の「感触」の、その違和感を胸にずっと抱え続けている。しかし、それは下手するとすごくふつうの感覚なようにも思える。少なくともこちらを知的に興奮させるようなものでもなければ、物語的な興味を引きそうにもない。でも、そんなことにこだわって語り続けるのは、どこか尋常ではないような気もする。その尋常でない感じそのものに、こちらを引きつける何かがあるのではないか。

 つまり、本書の語りは、読者の立場からするとほとんど動機不明すれすれのレベルで、慢性病のようにして展開していくように思えるのである。なるほど、これでは雑誌での連載時に入っていけなかったわけである。途中だけ読んでもだめでしょう。慢性病はじわじわと付き合っていかないといけない。しかも伊井は、読者をじわじわと付き合わせる文体を持っている。さわやかというのとは違うのだが、やけに饒舌で、でもさっぱりしていて、ときにゆったりとくつろいだり、あれやこれやと世話焼きふうになったり、うるさいと言えばうるさいのだが、一緒にいるとあまり気にならなくなってくる、近所のお兄さんのような感じ。引き際をわきまえていて、言い過ぎたり、威張ったり、高々と屹立したりはしない。でもかなりしぶとい。やめない。同じ作家が何度も出てきたり、もう終わるかと思うとまだ続いたりする。

 本書の山場は、庄野潤三を扱った第11章にあると思う。この章で著者は、「プールサイド小景」からたいへん印象深い一節を引いてくる。会社員たちを「怯えさせるもの」について書かれた箇所である。

 彼等を怯えさせるものは、何だろう。それは個々の人間でもなく、また何か具体的な理由というものでもない。それは、彼等が家庭に戻って妻子の間に身を置いた休息の時にも、なお彼等を縛っているものなのだ。それは、夢の中までも入り込んで来て、眠っている人間を脅かすものなのだ。もしも、夜中に何か恐ろしい夢を見てうなされることがあれば、その夢を見させているものが、そいつなのだ。(伊井 138)

 きっと著者が遠く先のほうに見やり続けているのも「そいつ」のことなのだ(フィリップ・ラーキンの「ひきがえる」という詩とそっくり)。だから最後を締めるのも、メルヴィルの「バートルビ」なのだ。それをとらえるために、伊井はグラフを持ち込んだり、オフィスの平面図を描いたり、「会社員半身説」をとなえたりしながら、地味に試行錯誤をつづける。議論としては誠におとなしく、壮大な陰謀説も結局出てこないし、きらびやかな用語でけりをつけられることもないのだが、冒頭で著者が約束するあらたな「知見」が思いつきのようなさりげなさで示されるときには嬉しい気分になるし、何より、小説作品との付き合い方がいい。粗筋の語り方ひとつとっても静かな芸があるし、下手すると見逃すのだが、作品へのからみ方には相当な技術が見える。ああ、やっぱり小説家だよなと思わせるような、血の通った文章で書かれた本なのである。


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