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『スタッキング可能』松田青子(河出書房新社)

スタッキング可能

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「黄胆汁型」

 ご存じの人も多いだろうが、人間の性格をわけるのに「四つの気質」(four humours)という分類法がある。もともと古典古代からあった考え方がルネッサンス頃になって再び流行したもので、人間の気質が四つの体液のバランスで決まると考える。血液が多いと陽気で社交的、粘液だと鈍く物静か、黒胆汁過多は憂鬱症、黄胆汁の多い人は行動的でかっかと怒りっぽい……といった具合である。どことなく魔術的なあやしさを引きずった知見だが、文学作品の分類にはやっぱり便利かもしれない、と松田青子の『スタッキング可能』を読みながら思った。

 考えてみると世の小説の主流は長らく「黒胆汁型」(=憂鬱気質)だった。勝負はいかに「過去」にこだわるかで決まる。原動力となるのは怨恨とトラウマ。これに対し陽気で饒舌な「血液型」もエンタメ系を中心にそれなりに勢力を保ち、「粘液型」は「しみじみした味わい」などと呼ばれながら私小説などで静かに生息する。

 しかし、怒りっぽい小説というのはどうなのだろう。志賀直哉はいかにも不機嫌だけど、「黄胆汁」というよりはやっぱり「黒胆汁」ではなかろうか。そうすると西村賢太町田康といったラインが浮かんでくる。少なくとも多数派ではなさそうだ。

 で、松田青子は堂々と「黄胆汁型」ではないかと思ったわけである。どの作品もはっはっはっとホットなのである。憎悪とか怨念ではないし、単にムッとしたというのでもない。はじめのうち、この「ホットさ」は突っ込みや小ネタとして読めてしまうので、ともかくこちらも走る語りに負けないよう、一生懸命併走しようとする。

学生時代の夏合宿の夜、『わたし』がオセロで勝つと、負けず嫌いだなあと言った同じサークルに属していた男。どうして普通にオセロをしていただけで、そしておまえに勝っただけで、負けず嫌いになるのか。おまえがオセロ弱いだけだろ。お好み焼き屋で、『わたし』が率先して取り分けないと、えっ女のくせに取り分けないなんてびっくりしたと言った、同じゼミに属していた男。論外。そいつの一言にふつうに意見を言おうとしただけなのに、まあまあ、怒らない、ムキにならないとなだめてこようとしたバイト先の男。女が言い返すとは、自分と違う意見を返そうとするとはつゆとも想定したことがない男。そういう女が全員怒っているように見える男。(「スタッキング可能」、16-17)

 怒ってるって言うな!と言うが、やっぱり多少怒っているように見える。かっかっとしている。体温が高い。でも、だんだんわかってくるのだが、これは単なる人物の個性とか事件の問題ではない。作品がホットなのだ。文章のあちこちに何とも言えない「早口」な感じがあって、ぼけっとしてるとついていき損ねる。いや、ぼけっとしていなくてふつうに読んでいても、いつの間にか文章においていかれる。

 そういう構造になっているのである。

 表題作の「スタッキング可能」は章ごとにフロアの入れ変わる会社(員)小説で、語り手も登場人物も場所も徹底的に匿名。場面はせわしなくフロアを移動する。にもかかわらず、人物たちの周波数がどこか重なるせいか妙な連続感があって、関係ないはずの会話がかみ合うように見えたりもする。

 会社とはフォーマルな世界である。制服ではなくても、制服まがいの鬱陶しい服装を強要されるし、振る舞いや会話にもいちいちしきたりがある。だから、「スタッキング」(家具などの「積み重ね」)も可能になるのだが、フォーマルなものに対するいらいらはつのる。人物が一見いらいらしていないときも、根底にホットなものがあるのはわかる。

そういう先輩たちはというとすごかった。それぞれ自分の担当分野に精通していた。担当分野では無敵だった。それにあのよどみのない電話対応。こなれた様子で完璧な敬語を使いこなす姿。かっこよかった。敬語を自由に操れるのってかっこいい。英語のほかにフランス語を話せるくらいのかっこよさだ。自分のたどたどしい、板についていない、尊敬語も謙譲語もごっちゃになった敬語とはぜんぜん違った。
 これはこうこうこういうかたちになっておりまして、こちらはこういうかたちになっております。そうですね、そういうかたちになります。ええ、ええ、そういうかたちでおねがいします。そのかたちですね、そのかたち。(57)

 いらいらさせるのは、オフィスの「かたち」なのだ。その延長で、小説という形式もついでに蹴飛ばしてしまいそうな勢いである。しかし、必ずしもそうはならない。「ウォータープルーフ嘘ばっかり!」のように小ネタだけで楽しめる小篇もあるが、「スタッキング可能」とか「もうすぐ結婚する女」といった作品がけっこう油断ならないのは、最終部で意外に小説的に落ちついていくところである。登場人物は匿名で、設定や物語からもどんどんエントロピー的に離脱していきそうなのに、何かが引っかかっている。

 その「何か」が直接名指されるような野暮なことはない。でも、終わりにかけ、それまでのはっはっとしたホットな語りをなだめすかすような描写が入ってくる。たとえばL木が食べ終わった菓子パンのゴミをまとめて、コンビニ袋の空気を抜いているところ。

 たいした空気量じゃないから聞こえるはずないのに、抜けていく空気のおとが聞こえるような気がした。抜けていく空気の色が見えるような気がした。コンビニの袋はぺしゃんこになった。C木は知らないが、L木は明日から会社に来なくなる。だからこれはC木が最後に見たL木の姿で、C木はこれから先、さみしさやむなしさといった概念について考えるたび、静かに空気を抜いていたL木さんの姿が脳裏に浮かぶようになる。(79)

 こういう場面が「黒胆汁型」の小説にあったら、いかにもウェットな終わり方になりそうだ。しかし、何しろ「スタッキング可能」は「黄胆汁型」なのだ。小説のせわしないホットさと、この「ガス抜き」とがひと味ちがったバランスを作り出す。次のような一節もそうだ。まずは、男性社員の「黒胆汁的」な夢想がある。

 朝もすごい。朝のオフィスは明るい。すべての窓にブラインドが下りていても、どうしても明るい。朝!としか形容のできない明るさだ。窓の外にあるジャンクションの上を車が途切れなく流れていく。一〇階のオフィスは重なったジャンクションのうち一番上の高さにあるジャンクションとだいたい同じ高さだ。ジャンクションを大型トラックが通るとすぐにわかる。大型トラックが通ると、オフィスの向こうの隅からこっちの隅まで黒い影がブラインドをざざっと通過する。まるで大きな鳥が頭上を通過したみたいに、全身が翼に持っていかれたみたいになる。浮遊感に襲われる。寝不足の時などそのまま持っていかれそうになる。(83-84)

 何と陶酔的なのだろう。そして、たしかに多くの小説は、このような朝陽や夕陽をながめるような感慨とともに落着していくのである。しかし、「スタッキング可能」では、そのすぐとなりに、その社員をじっと見つめる「黄胆汁」の語りがある。

『わたし』は男性社員がさっきまで立って熱心に外を眺めていた窓に近付いた。何を見ていたんだろう。別にいつも通りの景色だった。夕焼けの橙色がまぶしかった。
 知っている。あの男性社員はなんでもセクハラで済ませればいいと思っている。(中略)ほかの男性社員が女性社員にくだけた調子で話しかけると、ちょっと踏み込んだ質問をすると、女子社員が答えようとする前に、一緒に笑おうとする前に、こう言う。「おまえ、それセクハラだぞ」「おいおい、セクハラやめろよな」そして理解してますよみたいな調子でこう言う。「セクハラですよって言った方がいいぞ」「なあ、セクハラだよなあ。まったく困った奴らだよな」。(87)

 ほら、はっはっしている。でも、だからといって、男性社員の「黒胆汁型」のメランコリーを全否定するわけではない。「黒胆汁」と「黄胆汁」が、それぞれの持ち味は失わないまま、二つの流れとして交錯し、いかにも終わりにふさわしい空気を漂わせるのである。一種の哀愁かもしれない。が、「黒胆汁」依存のどっぷりと耽溺的なそれとは根本的にちがっている。人と人とが鋭利にずれることから生ずる何か。こんなふうに小説的エッセンスが取り出されるとは!と感心した。小説を壊したいわけではないのだ。構築しているのだ。

 「もうすぐ結婚する女」もお薦め。こちらも、何人も出てくる「もうすぐ結婚する女」を、いちいち「もうすぐ結婚する女」と呼ぶかっかとした「黄胆汁」的な部分ばかりがはじめは目につくが、終わりにかけ「え、この小説、こんなふうに終われるの!」とびっくりするほど落着的な仕掛けが見えてくる。小説としてはぜんぜん似てないけど、この空気、案外ジョイスの『ダブリン市民たち』あたりと似ているなあ、と唐突に思ったりもした。語りがいつも別の目を隠し持っている世界に遠く通じているのかもしれない。


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