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『中国近世文芸論:農村祭祀から都市芸能へ』田仲一成他編(東方書店)

中国近世文芸論:農村祭祀から都市芸能へ

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「中国大衆文化の底面」


巷には「中国四千年の歴史」などという表現があるが、これはいささか誤解を招く言い方である。というのも、こうした言い方は、中国の文明がずっと等質の歴史を刻んできたような印象を与えてしまうからだ。しかし実際には、その一見して長大で連続的な歴史のなかにも、さまざまな変形や再出発の契機が存在していた。そのことは、中国の大衆的な芸能をテーマとする本書からも、改めて確認されるだろう。

たとえば、小南一郎が「はじめに」で整理するように、唐から宋のあいだに、士大夫による文言小説が凋落し、経済的発展を背景にした都市の市民層による白話小説が盛んになる。宋代以降、文言小説が全盛期の輝きを取り戻すことはなく、かわって『水滸伝』や『西遊記』などの白話小説が影響力を持つことになった。あるいは、演劇に目を転じてみれば、そのエポックは元代にある。中国の演劇は元の雑劇を一つのピークとするが、続く明清時期には民衆のあいだへと拡散し、質的には散漫化した。とはいえ小南も言うように、明清時期に形成された京劇や地方劇のフォーマットは今日においてなおも伝承されており、大衆文化の一つの重要な基盤となっている。さらに語り物の物語にしても、明清時期に「宝巻」や「弾詞」のスタイルで再解釈されたものが、現在にまで届けられているケースが少なくない。このように、中国の大衆文化は物語の内実や受容環境をそのつど書き換えながら、幾度にもわたるリスタートを遂げてきたのである。

本書所収の諸論文もまた、その明清時期(本書で言うところの「近世」)に形成された大衆芸能のフォーマットに焦点を絞っている。その議論はもっぱら、農村文芸と都市文芸がいかに交差してきたかというテーマに沿って展開される。田仲一成論文が指摘するように、商業社会が発達し、人的流動性が高まるなか、農村文芸が交易を通じて都市に流入することもあれば、逆に都市文芸が農村に作用することもあった。問題は、こうした都市と農村の相互交流にも、一筋縄ではいかない側面があったことである。

たとえば、大木康論文は明の馮夢龍を例に出す。馮夢龍は蘇州近辺の都市/農村を横断して、地方の歌謡を採集したが、あくまで都市の知識人としての立場は崩さなかった。他方、金文京論文は、語り物の文芸(=講唱文学)のなかの「詩讃系」と「楽曲系」の差異に着眼し、農村の文芸である詩讃系に対して、楽曲系は都市の文芸であり、かつそこには唐代に伝来した西域の音楽の影響があったこと、知識人にも愛好されたことを述べる。この二つの系統からは、それぞれ独特のジャンルやスタイルが生み出され、中国の大衆芸能の基盤となった。「都市的なもの」と「農村的なもの」は、ときに有機的に混ざり合い、ときに別の系統として自律するのだ。

こうした民間芸能の複雑さは、たとえば日本の伝統芸能と比べても、かなり異質である。田仲論文で言われるように、歌舞伎などの日本の近世芸能が町人層に向けてつくられた都市の演劇であるのに対して、中国では農村演劇が分厚く展開されていた。日本では今でも「演劇」というと都市的なニュアンスを帯びているが、中国では必ずしもそうでないのだ。いずれにせよ本書では、文献調査からフィールドワークに到るまでの方法論を駆使して、中国の大衆芸能の分厚い――しかし民間芸能ゆえに失われることも珍しくない――文化圏を復元することが試みられている。

考えてみれば、かの魯迅も、出身地である浙江省紹興の演劇(目連戯)に通じるような「鬼(霊魂)」のイメージを、たびたび作中で示している(丸尾常喜『魯迅』参照)。あるいはもっと最近の例で言えば、今をときめく「80後」世代の作家・郭敬明も「校園民謡(キャンパス歌謡)」のリリシズム――ほとんど演歌的な!――を、物語内に導入している(さらに言えば、郭敬明自身「歌手」として自分を売り出していたこともある)。そこからしてみると、確かに中国においては、歌謡や演劇などのオーラルなレベルの習慣が、しばしばメインカルチャーサブカルチャーの別を問わず露出することがあるのだ。W・J・オングの言う「声の文化」と「文字の文化」は、中国では非常に独特の関わり方をしていると言ってもいいだろう。

本書は、芸能の分析を通じて、そうした中国の「声の文化」の多層性とその変形のプロセスを浮き彫りにする。中国の大衆文化を観察する上で、非常に有益な示唆に富んだ書物だと言えるだろう。

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