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『貧民の帝都』塩見鮮一郎(文春新書)

貧民の帝都

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「格差問題を政策の問題としてではなく、「ほどこしの文化」の問題として考えるために」

 いま日本社会を生きていると、貧困や所得格差の問題は社会政策の問題であり、税金分配の仕組みを合理的な制度に改革することが、その解決方法の全てであるかのように思えてしまう。だが、そうだろうか。確かに行政府は「友愛」の精神に基づいて、年金制度や失業対策政策などの福祉政策を実行すべきなのだろう。それに反対する人間などいない。だが本書の著者・塩見鮮一郎は、そうした政策的な福祉論議に真っ向から背を向けるかのように、いまの私たちの社会のなかに、さらには私たちひとりひとりのなかに、福祉の精神はあるのかと問いかけようとする。行政府に福祉の責任を完全に預けてしまうことによって、逆に目の前の貧困者に「ほどこし」を与えるという日常的な道徳感覚や慈悲の精神を日本人は失ってしまったのではないか。だから事実、ホームレスがいざ電車のなかで寝転がって臭気を発していたりすると、私たちはただ遠巻きに眺めて腫れ物のように彼を避けることしかできない。そのように人間同士の直接的な「ほどこし」のコミュニケーションが存在しないところで、格差社会の問題をいくらメディア上で立派に論じたとしても何の意味もないのではないか。本書の著者は、明治維新の混乱によってスラム化したところから出発した東京という都市の生活困窮者たち(とその救済施設)の歴史を丁寧に辿りながらも、そう静かに怒り続けているように思う。

逆に言えば、江戸時代の日本社会には「仏教的なほどこし」の文化が確かにあったと著者はいうのだ。いやそれどころか、それは戦後の日本社会にまで生き延びていた。第二次大戦後の地方都市に育った著者によれば、彼の母親は、自分の家へ「奥さん、花、買うて」と「土ぼこりをかぶった頭」でときどき訪ねてくる貧しい女性に小銭を与えたり、「奥さん、庭の草ぬいてよいか」といってくる貧しい身なりの老人に納屋に住まわせてやったりして、「功徳をおさめた気分」になっていたそうだ。「戦後の地方都市でもこれくらいの助け合いが自然におこなわれていた。農村部なら、庄屋とか名主とかいわれた豪農が野小屋を提供し、相手にむいた下働きをさせた。いまならホームレスになるしかない弱者を吸収するしくみが地域社会にのこっていた。また、貧民が集住できる土地があちこちに散在していて露命をつなぐことができた。」(11頁)つまり前近代的な日本社会は、土着の文化として、福祉の精神と社会的仕組みを確かに持っていた。

 ところが明治維新の制度的近代化によって、そうした文化的な救済の仕組みは殺されてしまう。明治5年にロシア皇太子アレクセイが来日した時、東京府は、路頭をさまよう貧民の姿がみっともないという理由で、旧加賀藩邸に二百四十人もの貧民を押し込んで「乞食廃止令」なる無慈悲な法令を交付した。乞食に施しを与えても彼らを甘やかすだけだからやめたほうが良いという冷酷なお達しだ。現代社会の「自己責任」論の起源と言っても良いだろう。こうして明治政府は、せっかく日本社会が自前で持っていた人情的な「ほどこしの文化」を、外国との競争や虚栄心のために否定してしまったというわけだ。

 むろん本書が主として記述しているのは、そのような単なる理念的な怒りや福祉論ではない。極めて具体的なスラムや貧民救済施設の歴史的記述である。その明治5年に貧民を押し込めた旧加賀藩邸の貧民収容施設を渋沢栄一が引きとって、「東京養育院」という福祉施設とし、東京中のあちこちに場所を移しながらも福祉活動を続けてきた歴史を全体の話の主軸にしながら、四谷鮫ヶ橋、下谷万年町芝新網町、新宿南町という東京の四大スラムの当時の悲惨な様子を丁寧に描写し、そこに長谷部善七(浅草溜)や徳永恕(二葉保育園)や石井十次(岡山孤児院)や賀川豊彦(神戸・新川スラム)らの貧者救済活動の挿話を織り交ぜていく。そのときとくに興味深いのは、そのスラムや養育院の在った場所を、現代の地図を参照しながら、今ではその痕跡さえ見当たらない繁華街や住宅地のどのあたりになるのかを丁寧に紹介するところである。つまり著者は、単なる過去の話としてこうしたスラムの歴史を読んでほしいのではなく、いまは豊かに見える東京の街なかに貧者たちが暮らした歴史の痕跡を見つけだし、貧者の立場から東京の歴史を想像しなおすことを読者に呼びかけようとしているのだ(だが一つだけ留保を置くならば、それが可能になったのは、私たちの社会が、ようやく地域差別の呪縛を抜きにしてスラムの問題を語ることができるほど、暮らしの「場所性」を喪失したということかもしれない)。

 その意味で本書は、東京の無残な死者たちの慰霊碑をめぐり歩きながら、無名の死者たちの声を蘇らせようとした小沢信男の『東京骨灰紀行』(筑摩書房、前々回にこの書評ブログで取り上げた)の姉妹編のような本になっていると思う。小沢氏も谷中墓地を取り上げた章では、本書の主役である「東京養育院」の5本の慰霊碑(3千7百名あまりを合葬している)をお参りしながらその歴史を簡単に辿り、同じ谷中墓地に彼らを見守るように渋沢栄一家の墓があることにも読者の注意を促していた。またこの2冊の本がともに注目しているのが、四谷鮫ヶ橋にあったスラムとそこで貧民の子供のための二葉保育園を運営して奮闘していた徳永恕の挿話である。(両者とも徳永の活動については、上笙一郎山崎朋子『光 ほのかなれども─二葉保育園と徳永恕』(朝日新聞社、1980年、光文社文庫1986年、現代教養文庫1995年)を参考文献にしているが、この本は今回読んでみて大変な名著だと思った。絶版であることが悔しい)

 私はこの3冊を手に持って、東宮御所の門前にして学習院初等科の裏手にある、かつての四谷鮫ヶ橋近辺(中央線の四谷と信濃町の中間)をぶらぶらと歩いてみたのだが、東宮御所の門のすぐ先にある中央線ガード下に「鮫ヶ橋通ガード」などと書いてあって、まるで3冊の本と土地の地霊の力が、私が持つ東京の狭いイメージをぶち壊してくれるような思いがした。何しろ小沢信男の紹介によれば、2003年5月には、東宮御所から雅子妃と愛子さんが出てきて、目の前の「みなみもと町公園」(ガード脇のしょぼい公園だ)に公園デビューしたとき、それを拍手で出迎えたのは、もともと皇室から御料地を借り受けてこの地に作られていまもある二葉保育園の園児と保母たちだったというのだから。私はその光景をテレビで見たにもかかわらず、まるで気づかなかったのだが、あれは東京の最上層と最下層の歴史的痕跡の遭遇だったのだ。そう理解してしまうと、やはり福祉問題は正義と民主主義の政策の問題なのではなく、君主制や道徳的慈悲の問題なのではないか。そう私は改めて想像を膨らませてしまったのだった。


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