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『メディア・リテラシー教育──学びと現代文化』デイヴィッド・バッキンガム、鈴木みどり監訳(世界思想社)

メディア・リテラシー教育──学びと現代文化

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「「啓蒙」の引きうけ方」

メディアリテラシー。直訳すれば「メディアの読み書き能力」である。台湾では「媒体素養」というそうだ。こちらのほうが直感的にわかりやすいかもしれない。

このカタカナ言葉はここ数年、日本でもかなりひろまってきた。年齢・職業・性別を問わず、少なからぬひとびとがこの言葉をどこかで耳にしている。口に出してみたことだって、あるだろう。

たとえば、今年前半の放送界をにぎわわせた、「納豆ダイエット」捏造をめぐるドタバタ劇だ。健康情報バラエティ番組『発掘!あるある大事典II』1月7日放送回に端を発するこの騒動のことはよく知られているだろうから、ここで詳細は述べない。3月になって、これら一連の事件にかんする外部調査委員会の報告書が発表された(「当事者」である関西テレビ放送のサイトからダウンロードできる)。この種の報告書としては異例ともいうべきことだが、まっとうな内容である。今回の事件がたんに偶発的に生じた不幸な過ちなどではなく、今日の日本の放送産業のあり方に直接かかわる、根深くて構造的な問題であることが具体的に示されているのだ。そしてその最終章においても、再発を防ぐための提言のひとつとして、視聴者のメディアリテラシー向上の重要性が説かれている。

だが他方、この「メディアリテラシー」なる言葉には、わかりにくさがつきまとう。どことなくすっきりせず、語るひとによって意味の異なることも稀ではない。いまだカタカナ表記のまま適切な日本語訳が定着していないことも影響しているのだろう。じっさい、「マスコミにだまされない賢い視聴者」みたいなあたりで適当に了解されているのなら、まだよいほうだ。

メディアリテラシー」とはいったい何なのか? それはなぜぼくたちにとって必要であり、具体的にどのようにして「向上」させられるものなのだろうか? こうした疑問に答えてくれる数少ない教科書のひとつが、デイヴィッド・バッキンガム『メディア・リテラシー教育──学びと現代文化』(鈴木みどり監訳、世界思想社)である。

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メディアリテラシーを扱う領域は、大きくいえばメディア研究と教育学の二つに大別できる。本書は前者を強く意識しつつも、明確にその足場を後者におく。著者デイヴィッド・バッキンガムはロンドン大学教授。英国におけるこの分野を、文字どおり牽引してきた第一人者だ。学内にかまえた「子ども・若者・メディア研究センター」を拠点に、さまざまな調査・研究・教育活動を展開してきた。ここで蓄積された知見は、本書にも縦横に活かされている。その直接的な効果は、本書がすぐれた教科書の通例どおり、このテーマの全体像を理論と方法の両面からバランスよくおさえた構成をもつばかりでなく、そのそれぞれについて、実際に著者らが取り組んできたプロジェクトを踏まえ、具体的で突っ込んだ記述がなされている点に見てとることができる。

本書はまず、つぎのような宣言から始まる。メディアリテラシー教育とは、「メディアについて教えることと学ぶことのプロセス」である。メディアリテラシーとは、「その成果、つまり学ぶモノが獲得する知識と技能であ」り、したがってそれは「必然的にメディアを「読むこと」と「書くこと」」、すなわち解釈と制作の両方をともなうことになる。ゆえにメディアリテラシー教育とは「批判的な理解と能動的な参加の両方の発達を目指」すものであるべきだ、というのである。

そして実際の教育の場面において最初に強調されなければならないは、生徒たちはけっして無知ではないという事実だ。かれらはメディアをたのしみ、それについて少なからぬ知識をもち、ときにメディアから距離をとってみせさえする。逆に、教師といえども全知ではなく、メディアについて知らないことも少なくない。だから、メディアリテラシー教育のプログラムにおいては、まず生徒自身がメディアについて知っていることを出発点にしなければならない。この指摘は、一片の曇りもなく正しい。

こうした姿勢は、カルチュラル・スタディーズの文脈におけるメディア研究の影響を強くうけていることを示しているだろう。今日もしばしば見られるように、マスメディアを一方的に視聴者に有害な情報を送りつけてくる害毒だと前提したり、視聴者がそうした情報にただ一方的に毒されているといって難じたりする立場は、たんに建設的でないばかりか、そもそも現実の過程を十分クリアに見切っていない。メディアは情報を伝える中立的な導通路ではないのだ。そうではなく、メディアとは、意味をめぐってさまざまな力が動きひしめき、そこにさまざまなアクターが生成される政治経済的な過程なのだ。

こうしたことを生徒が十分に理解するためには、ただ座学で講義をうけるだけでは、まったく足りない。生徒たちとともにテクスト分析や文脈分析をおこなっていくこともむろん大切だが、それですら出発点でしかない。「テクストは全体像のほんの一部でしかない」からだ。そこでの学びは、著者が基本概念とよぶもの──制作、言語、表象、オーディエンスの四つを多面的におさえている必要がある。ひとつのテクストをとりあげて、その制作、マーケティング、消費といった諸視点から分析する「事例分析」。新聞記事からテレビニュースへといったように、あるテクストを別のメディアに変換する「翻訳」。そして生徒たちがメディア制作者になったつもりで企画・制作・宣伝などのロールプレイをおこなう「シミュレーション」など。本書ではいくつもの事例や授業設計マニュアルを紹介しながら、授業戦略の要点を整理していく。これらは、メディアリテラシー教育がいかなるものかを考えるうえではもちろんのこと、日本で同様の授業を試みている教師たちにとっても実際的な参考になるはずだ。

本書の核を成すのは、大きな野心である。メディアリテラシー教育を「理論的に首尾一貫していて実践的に可能な」ひとつの学として定位させたいという野心だ。そのことは、本書執筆の動機として、著者が、メディアリテラシー教育のおかれた英国の初等中等教育をめぐる状況にたいする「やり場のない失望感」をあげていることと深く関係している。それは、教育やメディアの専門家たちがメディアリテラシーについて不十分な理解で満足してしまっていることへの失望であり、メディアアリテラシー教育を推進するセクターのとる戦略にたいする失望であり、メディアリテラシー教育にかかわる現場の教師が周囲や行政からいまだ十分な支持を得られないことへの失望である。本書は、だから著者がこれまでの蓄積をもとに、この閉塞感を内側から食い破るべく執筆されたものなのだ。その挑戦は、一定の成功を見たといえるだろう。

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興味深いのは、本書の題名にかかわる経緯だ。邦訳で『メディア・リテラシー教育──学びと現代文化』とされている書名は、原著では『メディア教育──リテラシー・学び・現代文化』 (Media Education: Literacy, Learning and Contemporary Culture) である。著者自身が述べているように、「メディアリテラシー教育」という言葉はむしろ北米とりわけカナダで多くつかわれる傾向が見られる。英国では「リテラシー」の語をつかうよりも、もっぱら「メディア教育」という。いずれにせよそれは、メディア「をつかった」教育のことではなく、メディア「についての」教育を意味している。ところが、日本では、視聴覚教育に代表されるメディアを「つかった」教育の伝統が根強い。これと混同されることを避けるためにも、邦訳書名をこのように変更したのだという(「訳者あとがき」)。

邦訳出版にさいしてのこの書名変更は、日本の文脈を考えれば、賢明な判断だ。と同時にこのことは図らずも、まったく別の次元において、メディアリテラシーが根本的にかかえる困難を象徴してしまってもいるように見える。それは、「リテラシー」という言葉に染みついた啓蒙臭である。啓蒙臭は、いくら拭ってもけっして消えぬ、この言葉の体臭なのだ。

メディアリテラシー」にたいして批判的ないし懐疑的な立場をとって距離をおこうとするひとは、けっして少なくない。むしろメディアについて一定の知見をもつひとや、実際にメディアリテラシー教育にかかわっているひとのなかにこそ、そのような感覚のいだかれるケースが多いようにすら、おもわれる。かくいうぼく自身も例外ではない。かつてそう感じていたことがあった。今日では、メディアリテラシーをいちおうは専門のひとつに掲げるようになったこともあり、以前とは少し違う考えをもっている。とはいえ、違和感が消えてなくなったわけではない。

こうした違和は、なによりも「リテラシー」(literacy) という言葉に由来する。原著では独立した言葉として副題にありながら、邦訳では正題に昇格して「メディア」の語と結合したこの言葉は、一般には「読み書き能力」と訳される。だが、たんに即物的な技能だけを中立的に意味するのではない。この言葉は啓蒙的ないし教条的な、それゆえに一種の権力的な色彩をはっきりと帯びている。

なぜか。それは、「読むこと」「書くこと」が、自然に発現される先天的な能力なのではなく、教育という過程を経ることでしか身につかないものだからだ。すなわち言葉の運用能力は、そのひとのもつ文化資本に大きく左右されるということである。出自・階級・家庭や教育環境などといった要素に強く依存するのだ。その傾向がとりわけ顕著にあらわれるのが、「読むこと」と「書くこと」である。だからよくいわれるように、英国では、その人物の書く英語を見れば、どのような教育をうけてきたのかが一目瞭然となる。リテラシーを身につけたという意味の literate という英語に「教養/学問のある」という意味が含まれるのも同様だ。言語運用能力とは文字どおりひとつのパワーであり、メディアと同様にそれ自体が政治経済的な力学の場なのである。

リテラシーという言葉が現在のような意味あいで英語に定着したのは1880年代のことだといわれているが、それはけっして偶然ではない。「読むこと」「書くこと」は、市民社会の成員、すなわち中産階級への資格を得るためのパスポートであると同時に、特定の言語およびその背後にある価値やイデオロギーを身体に刻印し、これを実践していくことでもある。いうまでもなく、この二つのモメントはきれいに整合するような性質のものではない。むしろ背反し、競合し、衝突するだろう。それでも、啓蒙というプロジェクトによって成り立つ近代以後の社会を生きるわたしたちにとっては、この二つのモメントのうちのどちらかひとつだけを享受し、もう一方を拒絶するという都合のいい選択肢は、おそらく持ちようがない。好むと好まざるとにかかわらず。

そうである以上、程度の差はあれ、「リテラシー」を扱いながら啓蒙臭を避けてとおることはできそうもない。啓蒙臭を嫌うからといって、言語の「読み書き」を拒絶する道を積極的に推奨する論理は、今日においては容易に合理化できないだろう。同様のことはメディアのリテラシーについても言えるのではないか。リテラシー教育とは、その対象が言語であれメディアであれ、批判的知性への契機と支配的イデオロギーの刻印という相剋する二つのモメントの齟齬と軋みを正面から引きうけつつ、その困難をどうにかして生き抜いていくことにほかならない。

こうした点について、本書では必ずしも明確に言及されてはいない。だが、メディアを「読むこと」と「書くこと」の習熟にはなんらかの教育的作用が不可欠だという本書に一貫する立場を、先に述べた原著書名における「リテラシー」の語の繊細な扱い方に対照させてみるならば、上に述べた困難にたいする著者の無意識の態度を見出すことができる。

本書において示された要諦と、浮かびあがった課題。これらを一括していかに引き継ぎつつ、それぞれの地域や文化の状況のなかで展開していくことができるのか。それが、著者らにつづく世代に課されたテーマだとうけとめるべきだろう。


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