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『戦後日本と戦争死者慰霊-シズメとフルイのダイナミズム』西村明(有志舎)

戦後日本と戦争死者慰霊-シズメとフルイのダイナミズム

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 現実に起こっている問題が複雑になればなるほど、基礎研究者の役割は大きくなる。著者の西村明は、「本書は、戦争死者という概念を採用し、戦死者と戦災死者をともに視野に含めることによって、靖国問題に終始しがちな慰霊をめぐる問題にたいして、あらたな視点を提供できるのではないかと考えている」。そして、著者は、基礎研究として、「本書で行ったことは、そういった気の遠くなるような作業のほんの一工程にすぎない」ということをわきまえている。


 本書は2005年度に提出した博士論文をもとに、加筆・修正を加えたもので、「はしがき」と2部7章、「まとめと展望」からなる。本書で著者がどういう問題意識をもって、なにを分析し、これからなにを考えようとしているのかは、裏表紙につぎのように適格に書かれている。「多くの戦争死者に対して、戦後を生きるものたちは、どのように向きあってきたのか。本書では、兵士だけでなく、原爆・空襲などにより亡くなった人びとを総称して戦争死者と呼び、戦後日本におけるその慰霊のあり方を、「シズメ」と「フルイ」という対概念のダイナミズムのなかから分析。さらに長崎の原爆慰霊を通して、政治レベルでの「顕彰」と「追悼」を争うだけでは済まない、新たな死者への向き合い方を考える」。


 本書で得られた結論は、最後の「まとめと展望」を要約するかたちで紹介するのがいいのだろう。が、「戦争死者慰霊とは何だったのか、そして何でありうるのか?」という副題の付いた「まとめと展望」は、「「シズメ」と「フルイ」の慰霊論」と「戦争死者慰霊と無縁空間」の2節からなり、宗教学を専門とする研究者の本領が発揮されていて、門外漢のわたしには難しすぎた。著者は、つぎのように結論を述べている。「死、あるいは死者と向き合うということは、未来に開かれ不確実性と可塑性を帯びたわれわれの生に、ひとつの輪郭を与える営みであるといえる。そうだとすれば、死者とどのような形で向き合うかということは、われわれが生きようとする生の内実を、どのようなものにしたいのかという問題に直接的に関わってくるものとなるだろう。したがって、どのような場で、どのような死者たちと向き合うべきかという問いがわれわれに突きつけているのは、実は死者の扱いという操作的問題なのではなく、むしろ、われわれの生そのものの扱いという、生に対する態度決定の問題なのである」。


 むしろわたしには、「第七章 国の弔意?」のつぎの最後の部分のほうが、わかりやすかった。「本書全体の議論からいえることは、国が慰霊・追悼の主体となることには、それが特定宗教の形をとったものであっても、無宗教的なものであっても、やはり、死者を国家の論理で「シズメ」たり、死者から国家的論理にあった意義を抽出し「フルイ」に活用するという危険性がどうしても存在する。その意味からいえば、国家は追悼の主体たるべきではないのだが、一方で被害を被った立場からは国家的な謝罪や承認を必要としていることも事実である。したがって、問われるべきは、国立の施設そのものの是非ではない。むしろ、国が何を積極的になすべきであり、なすべきでないことは何かということをめぐる、より綿密な議論であろう。国家と戦争死者慰霊との関係をめぐる問題は、活発な論争の歴史をもつだけに、さまざまな主張が膠着状態となり、論者の理念をめぐるイデオロギー闘争の様相を呈してしまっている。われわれがこれからなすべき作業は、この複雑に絡まってしまい、むしろ戦争死者たちを縛っているかのようにも見える糸を解きほぐしていくことではないだろうか」。


 著者が微妙な問題を慎重に取り扱っているだけに、気になることがあった。「はしがき」に数箇所「とりあげ」ということばが出てくるが、「取り上げ」「取りあげ」「とり上げ」と表記がバラバラである。本文でも語句の統一ができていないところがあって、文献がきちんと読めているのだろうかと不安になった。単著単行本を書いたことのある者にしかわからない苦しみのひとつが、この語句の統一で、内容を優先して総仕上げをしクタクタになっている者に、語句を統一する余力など残されていないのが普通だ。しかし、これから先、体力も気力も衰えていくことは確実で、若いうちに最後の体力と気力を振り絞って語句の統一をしておく技法を身につけておかないと、だんだん校正ミスが多くなって、「若いうちに、もっときちんとしておけば良かった」と悔やむことになる。いまのわたしのように。

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