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『老い衰えゆくことの発見』天田城介(角川選書)

老い衰えゆくことの発見

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 こんな本、読みたくない! そう思って、書店でタイトルを見て、目をそらしている人もいるのではないだろうか。病人でもないし、障害者でもないが、ほっておけなくなった家族を抱えていたり、自分自身にその徴候が現れて、この先が怖くなっている人にとって、現実を知るだけ怖くなる。その「困った人」を抱えていたり、その「困った人」に自分がなろうとしている人にとって、個人個人の状況があまりに違うから、他人の例はあまり参考にならないこともわかっている。


 では、本書を読むことは無駄か? 結論からいうと、これからの日本の社会を生きていく者として、この現実を確認することは最低限必要なことに思えた。目を背け、かかわりあうことから逃れることは、どうもできそうにない。それならば、正面から向き合うしかない。


 本書は、著者、天田城介の専門書を一般書として、書き改めたものだ。第1章から第4章までは、具体的事例に基づいて臨床の現実が描かれている。最終章である第5章は、社会学者として、戦後日本社会が生んだ現実を直視している。


 「はじめに」で、著者は<老い衰えゆくこと>を、社会的出来事としてとらえて、つぎの3つに要約している。「第一に、年を重ねる中で次第に身体にままならなさを抱えるという経験だけではない。むしろ、ままならない身体の中で「あたしはもう駄目じゃ。馬鹿になってしもうた。生きとってもなんの楽しみもない……」と嘆きながらも、必死(ひつし)にそれに抗おうとする経験である」。「第二に、家族や夫婦などにとって、<老い衰えゆくこと>とは、たんに「介護」を誰がどのように提供するかといった問題に収まるものではない」。「第三に、先述したように、<老い衰えゆくこと>とは、それまでその当事者がどのように生きてきたのか、どのように食っていくことができたのか、いかなる資源を獲得してきたのか、等々によって形作られるものである」。


 その社会的出来事は、「戦後日本社会における歴史と体制のもとで作り出されてきた現実」であり、つぎの3つの視点で現実を直視することを通じて、「私たちの社会の有り様を「発見」していくことが可能となる」という。「第一に、<老い衰えゆくこと>を徹底的(てつていてき)に社会的な出来事として見ていくべきなのである。第二に、<老い衰えゆくこと>とは、老い衰えゆく当事者と周囲の関係上の社会的出来事というだけではなく、当事者が老い衰えゆく中で「私は生きていても仕方がない」というように自らの存在を否定し、幾重にも深い苦悩と葛藤を経験せざるを得ないこと、その苦悩と葛藤こそが当事者に様々なつまづきをもたらし、悪循環をもたらしてしまうことが、まさに私たちの社会によって形成されているという意味での社会的出来事として捉えていくべきなのだ。第三に、まさに「どっちつかずの身体」である<老い衰えゆくこと>を過酷な現実にしている社会において、<老い衰えゆくこと>をめぐる政策と歴史はどのように形作られてきたのか、その歴史的な見取り図を描くことが重要なのだ。言い換えれば、戦後日本社会は誰を(いかなる人びとの身体を)想定して社会が設計されてきたのかを照らし出すことが大切なのだ」。


 著者は、目指すべき仕事として、「断片をたんに「寄せ集める」のではなく、「断片」を「繋ぎ合わせる」こと、そして「繋ぎ合わせたもの」から「<社会>を描き出す」こととし、「<老い衰えゆくこと>の発見」ないしは「<老い衰えゆくこと>からの発見」という事実を読み解くことこそ、近代日本社会とりわけ戦後日本社会の歴史と体制を深く分析することに繋がる」と考えている。


 そして、「老い衰えることに、どのようにして否定的な価値が付加され、それが個別の関係をどのように縛(しば)り上げてしまうのかを微視的(ミクロ)に、そして巨視的(マクロ)に描き出すことを通じて、老い衰えゆくことが背負(せお)わされた否定的価値の棘(とげ)をゆっくりと取り去りながら、私たちの社会の中に、老い衰えゆくことを静かに着地させてゆくことへと向けて、本書は書かれている」。


 「はじめに」と第5章の社会学的な話から、いろいろ学ぶことができた。断片を繋ぎ合わせる試みも伝わってきた。しかし、第1~4章の具体例はわかりやすかったが、繰り返しが多く閉口した。だれを読者対象として書いているのだろうか。<老い衰えゆくこと>を、実際に体験している人を対象としているのだろうか。すくなくとも社会学的な話を期待して読んでいる者にとっては、少々苦痛だった。逆に、第1~4章を中心に読んだ人は、第5章を読むのが苦痛だったかもしれない。一般書を研究者が書くことは、実にむつかしい。一般書といいながら、研究者はほかの研究者が読むに堪えられる内容にしようと欲張るからで、<どっちつかず>になってしまう。専門的なことは専門書に書いたのだから、もう書かなくてもいいと思いながら、書かざるをえなくなってしまう。困ったものだ。

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