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『老い衰えゆくことの発見』天田城介(角川学芸出版)

老い衰えゆくことの発見

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「「どっちつかず」であることの生き難さ」

今回は、当ブログで以前(2010年9月)ご紹介した天田城介さんの最新刊をご紹介します。



この本は、天田さんの著作『<老い衰えゆくこと>の社会学』を、多くの人が読めるように書き直す意図で作られたものです。そのため、第1~4章では、前著で扱われたデータがよりすっきりとした形にまとめ直され、コンパクトな読みやすさを感じさせます。これに対して、第5章(と序章)は、その後の研究の進展部分であり、直近に出版された論文集(『老いを治める』)にも含まれています。そこでは、戦後日本社会における労働・雇用体制と社会保障の流れを把握しながら、そこに<老い衰えゆくこと>を結びつけて理解することが目指されています。『老い衰えゆく自己の/と自由』では、アイデンティティに関するこだわりやそこから自由になる可能性がテーマだったのに対して、この本は、社会的文脈のうえに位置づけることで<老い衰えゆくこと>の新しい側面を発見していこうという試みだといえます。

<老い衰えゆくこと>を天田さんは「どっちつかず」と表現しています。「どっちつかず」というのは、個人の心身の次元と社会・経済的な次元とに分けてとらえられると思います。

個人の心身の次元というのは、<以前にはできていたことができなくなっていくが、しかし「まったくできない」というわけではない>ことを指しています。多くの人は、健常な状態から徐々に変化するプロセスを一定の時間をかけてたどる途上にいます。その途上にあっては、「私は(様々なことが)できなくなったのだ」という割り切りは難しく、かつての「できていた」自己イメージにどこかでこだわってしまうようなこともおこりえます。

もうひとつの社会・経済的な次元というのは、<十分な資産や預貯金があるわけではないが、かといってまったくないわけではない>ことを指しています。年金や若いころ働いてためた少々の預貯金、あるいは家族からの援助(金銭的のみならず、世話・介護も含む)があって、少なくとも一見するとどうにか暮らしているという状態です。天田さんによれば、高度経済成長期に日本社会が支援制度を拡充するにあたって、男性の稼ぎ手を擁する家族が念頭におかれる一方で、ひとり親家族や、高齢者、障害者、病人などは手厚い支援の対象からもれてしまった。そのような人たちが、しばしばこの「どっちつかず」の状態になっているといいます。

事例としてAさん(38歳男性)の例が第5章の冒頭で挙げられています。母親を介護する生活を「重い」と言いながらも、母親と同居して暮らす二人の生活。経済的には、母親の年金とこれまでのわずかな貯えに頼らざるをえない。しかしそれらがあるために、生活保護を受けるほどの困窮には該当しない。だから、Aさんとしては、現状を維持する形で介護に明け暮れることになり、失業したまま就労への一歩を踏み出すこともできない。ここには、ひとり親家族として子供を育ててきた母親の生活史と、非正規雇用化が進む社会の中で失業し介護生活に埋もれていくAさんの生活史とが、折り重なって見えます。

このAさん親子のようなケースは、一般的には<たいへんそうだけど、息子さんが頑張って何とかやっている家族>として見られやすく、直ちに支援の手が差しのべられることにはなりにくいように思われます。しかし、彼らの生活が危ういバランスのうえに成り立っているのは明らかです。母親やAさん自身のコンディションの変化、あるいは支援制度の変更などによって、いつ崩れるかわからないといえます。このように、支援対象としては見えにくい「どっちつかず」であることの生き難さを、「そんな人もいるでしょ」と片づけず、社会的な流れに位置づけながら、まさにそれを<老い衰えゆくこと>としてとらえようとするのがこの本だと思います。

<老い衰えゆくこと>は、誰の目にもわかりやすい貧困や障害とは違って、とらえどころがないように見えてしまいがちです。しかしそこには確かに生き難さが渦巻いていることに気づかせる、そのような意味で社会学的な想像力をかきたてる一冊です。認知症や介護について何らかの関心を持つ人には、端的に面白い本としてお勧めできます。


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