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『ナチスのキッチン-「食べること」の環境史』藤原辰史(水声社)

ナチスのキッチン-「食べること」の環境史

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 「台所にも歴史がある」で、本書ははじまる。「違うんじゃないの?」と思いつつ、読み進め、著者が言わんとすることは、「台所にも歴史がある」という下手な社会史ではないことがわかった。著者藤原辰史は、台所の歴史だからこそ、人間の本質がみえるのだと言っているように思えた。


 本書は、台所の近現代史である。「対象とする地域は、戦争に二度敗れ、東西に分裂したが、一九六〇年代にどちらも消費社会を実現した現代史の激震地、ドイツである。時代は、十九世紀中頃から一九四五年までの百年、そのなかでもとくに両大戦そのものと、それに挟まれた戦間期を扱う」。「そして、本書が最終的にクローズアップしていくのはナチ時代(一九三三~四五年)」。ナチスは、「家事や台所の合理化を推進した」。


 著者は、「台所の歴史を眺めるアングルをつぎの三点に整理する」。「第一に、台所を労働管理空間としてとらえる見方である」。「建築学的な台所設計や家具の配置が前面にでてくるのがドイツ現代史の特徴であり、また、エネルギー企業と電機メーカーによる家事テクノロジーの急速な普及も台所仕事の環境を大きく変えた」。「第二に、台所が、人間による自然の加工・摂取の終着駅であり、エネルギー網の末端である、という点である。つまり、人間と自然をとりむすぶ物質のリレーのなかで、台所が生態系のもっとも人間社会に近い中継地点であるとともに、自然から取り出してきたエネルギーや道具を販売する企業にとっては大きな販路なのである」。「第三に、台所を信仰の場、あるいは畏怖の対象としてとらえる見方である。世界各地で竃信仰が存在することはよく知られている」。


 そして、著者はそれらのアングルから、「本書は台所の諸構成要素の関係史、つまり台所の環境の歴史であり、同時にまた台所の思想の歴史でもある」とし、2つの問題意識を念頭に5章にわたって、考察、分析している。ひとつ目の問題意識では、つぎのように問うている。「ほかの生きものを食べなければ生きていけないヒトの「外部器官」、自然を改変する人間の作業の最終地点、あらぶる火の力に対する信仰と制御の場、人間社会の原型である男女の非対称的関係の表出の場-つまり台所とは、人間が生態系のなかで「住まい」を囲うときにどうしても残しておかなくてはならない生態系との通路なのである。このような見方をすることで、台所で行為する人間を「労働者」、台所仕事を「労働」という近代的概念によって規定してしまうことで漏れ落ちる、台所の生態学的な性質を救い出すことができるのではないか」。


 ふたつ目の問題意識では、つぎの問いである。「一方、社会史的な史料の残りにくい分野であるだけに、家事マニュアルやレシピなどに繰り返し書き込まれている通俗道徳にも注意を払う必要がある。通俗道徳は、動物や植物、気象現象などとの格闘のなかで、あるいは、経済変動に対応を迫られるなかで生まれた知恵であり心構えである。常民の日々の生活に溶け込んだ行為様式を叙述するためには、この通俗道徳を思想史の文脈で剔出し、信仰や学知の精神世界と癒合させることが不可欠である。そうしてこそ、はじめて、これまで台所仕事が、ある性別、ある社会階層の人間に偏ってきた歴史内部の権力関係を暴くことができるのではないだろうか」。


 本書は、「時間を中心に組み立てられた人文・社会科学に空間という概念を導入」した「空間」論の影響を受け、「歴史のなかの人間の位置づけを根本から問い直すことからはじめる環境史に挑戦」した成果でもある。そのことは、最後の章「第5章 台所のナチ化」のつぎの一文からもわかる。「ナチスの動員を読み解くにあたって重要なのは、「人」を埋め込む「空間」である、と私は考えている。「人」が「空間」に組み込まれ、「空間」が「人」を超越し、「空間」に「人」が支配される、というようなサイクルである」。「「機械」こそが、ナチスが究極的に主婦に求めたモデルであった。まさに食の内実が均質化し、主婦の人間性が剥奪されるかわりに、台所があたかも生命をもった有機体のように、吸収、消化、排出を繰り返す。ナチスの有名なスローガン「君は無、君の民族こそすべて」の精神は、まさにこうした空間の人間の生き方を示している」。


 そして、「終章 来たるべき台所のために」では、全3節の最初の節「一、労働空間、生態空間、信仰の場」で、「序章」で整理した3つのアングルが、「建築学、テクノロジー、家政学、レシピといった構成要素からドイツの台所の変身過程を立体的に追う過程で、どのような像を結ぶことができたか」、まとめている。つぎの節「二、台所の改革者たちとナチズム」では「指導的な役割を果たした三人の女性たちのナチ時代の受難は、何を意味していたのだろうか」と問い、最後の節「三、ナチスのキッチンを超えて」では「彼女たちの遺産を吸収して生まれたナチ時代のキッチンについて」考察し、「家族愛だけでは、台所仕事の深遠さを汲み取ることができないのである」と結んでいる。


 この終章は、文献史料を中心とした近代歴史学者では決して書けない、つぎの文章で終わっている。「肉食が好まれる時代に、肉食レシピを増やすような料理本は寿命も短い。歴史学もまた、過去の出来事のみならず、そのゴミ捨て場から、実現されなかった可能性を救出し、それを素材に未来を料理するためのレシピだといえよう。ドイツの古書店で見つけた料理本は、表紙が擦り切れ、背は破れ、書きなぐられたメモの紙切れがそのなかに数枚挟まれているようなものであった。本書が新しい一皿を求めてやまないすべての読者にとって、そんなレシピであればと願う」。


 この後、註、参考文献、人名索引があり、これで終わりだと思っていたら、「「食べること」の救出に向けて あとがきにかえて」という10頁ほどの重い文章がつづいていた。「ナチスのキッチンの究極は絶滅収容所にあるのでは」という出版社の編集者のコメントにこたえたものである。「納得できるまで、自由に書くことを許し」た編集者の強襲が、つぎの文章を著者に書かしたのだろう。「みんなで一緒に作って、食べて、片づけることは、実に楽しく、美しい。その時間を惜しんで成長に邁進する社会こそが「最暗黒」であったことに、光の世界の住人たちは、そのとき初めて気づくはずである」。著者は、いまの日本や世界に、ナチ時代の影をみているのかもしれない。


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