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『三つの旗のもとに-アナーキズムと反植民地主義的想像力』ベネディクト・アンダーソン著、山本信人訳(NTT出版)

三つの旗のもとに-アナーキズムと反植民地主義的想像力

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 日本人にはちょっとわからない著者の博識を背景に、独特の言い回しがあって理解するのが困難な本書を、日本語で読むことできるようにしてくれた訳者に、まず感謝したい。著者アンダーソンは、その著書『想像の共同体』(原著1983年)で、世界的に有名になった東南アジアを中心とするナショナリズム研究者である。本書では、19世紀末という「グローバルなアナーキズムとローカルなナショナリズムがときに対立しながらときに連結するという独特な政治空間を醸しだした時代」を扱う。地域は、3つの旗「フィリピン独立運動派の秘密組織カティプーナンの旗、アナーキストの黒旗、そしてキューバ国旗」で象徴している。残念ながら、原著表紙に5つずつ描かれている3つの旗は、日本語訳の本書にはどこにもない。原著にもなんの説明もないため、門外漢にはなにをあらわしているのかわからないが、著者は読者に「未知の世界」の話を予告する意味で、意図的に説明しなかったのではないだろうか。


 本書の概略は、帯の裏でわかる。「フィリピン・ナショナリズムの父ホセ・リサール、人類学者イサベロ・デ・ロス・レイエス、活動家マリアノ・ポンセ。19世紀末に連鎖的に発生したキューバ独立運動、フィリピンの民衆蜂起、ヨーロッパの反政府活動に三人の足跡はどうつながり、なにを語るのか。100年前に現れた地球規模の政治空間を詳細に描写し、国家・共同体・グローバリズムの問題を現代にふたたび問いかける」。現代に問いかけているわけは、「序文」最後のパラグラフでこう書かれている。「本書にはわたしたちの時代に類似したもの、あるいは共鳴するものが多数あることに読者は気づくかもしれない」。


 本書を読むと、「読者は、アルゼンチン、ニュージャージー、フランス、バスクの内地でイタリア人と出会う」。「プエルトリコ人やキューバ人にはハイチ、アメリカ合州国、フランス、フィリピンで、スペイン人とはキューバ、フランス、ブラジル、フィリピンで、ロシア人とはパリで、フィリピン人とはベルギー、オーストリア、日本、フランス、香港、イギリスで、日本人とはメキシコ、サンフランシスコ、マニラで、ドイツ人とはロンドンとオセアニアで、フランス人とはアルゼンチン、スペイン、エチオピアで出会う」。このようなことになったのも、「一九世紀末の二〇年間に「初期グローバリゼーション」と呼びうる兆候が始まっていたからである」。通信、交通の発達が世界を「狭く」し、それにのってアナーキズムが世界へ広まった。


 そのアナーキズムナショナリズムとどう呼応していったのか、その具体例が本書で語られている。「新世界における最後のナショナリストの蜂起(キューバ、一八九五年)とアジアにおける最初のそれ(フィリピン、一八九六年)とのあいだのほぼ同時性は偶然の発見などではない。伝説的なスペイン世界帝国の最後の、そして重要な遺物である現地住民、すなわちキューバ人(それとプエルトリコ人とドミニカ人も)とフィリピン人はお互いについての出来事を読むだけではなく、個人的な人間関係を築き、ある点までは互いに協調しながら行動した-そうしたトランスグローバルな相互関係が世界史上初めて可能になったのである」。


 著者は、「本書の構成は方法論と対象に基づいている」とし、続けてつぎのように説明している。「独断的ではあるが、本書の明快な出発点は一八八〇年代の静かで遠く離れたマニラとなる。それから、話題は次第にヨーロッパ全土に拡がり、そしてアメリカ大陸、最後には出発点以上に独断的な結末に向けてアジアにまで延びていく。こうであるから、本書にふさわしい終わり方は「結論」なしということであろう。本書は、言うなれば一八六〇年代初頭に生まれた三名のフィリピノ愛国者であった若者の人生を中心に描くことになる」。


 「第一章と第二章は、二冊の注目すべき書物を対照的に検討する。一つはイサベロの『フィリピンの民俗学』・・・、もう一つはリサールの二冊目の著作に当たる不思議な小説『エル・フィリブステリスモ』」。「第三章は、素人の文芸批評から離れて政治の領域に入るところから始まる」。そして、「ヨーロッパと東アジアにおけるビスマルクの影、産業用爆発物におけるノーベルの技術革新、ロシアのニヒリズムバルセロナとアンダルシアでのアナーキズム、これらすべてが本章では明らかとなる」。「第四章は、一八九一年のリサールの帰郷から一八九六年の年の瀬も押し迫ったころに執行されたかれの処刑までのあいだの四年間を取りあげる。とりわけ、キューバにおける政情の変化と、フロリダとニューヨークでのキューバ人移民コミュニティにおける変化について議論する」。「第五章は最も複雑である」と冒頭に述べ、前半でバルセロナで発生したアナーキストによる爆破事件からドレフュス事件までもっていき、後半はイタリア人アナーキストによる暗殺事件に始まる。そして、「最後の主要な二つの節では、リサールの親友であるマリアノ・ポンセの活動とイサベロ・デ・ロス・レイエスを軸に議論を展開する」。たしかに複雑で、わかりにくい。


 ここまで読んで、とてもついていけないと読むのをあきらめる人がいるかもしれない。とくに『想像の共同体』のファンは、そう感じるかもしれない。『想像の共同体』の原著が出版されたのが、1983年である。この年を考えると、『想像の共同体』は近代科学のひとつの終着点であったかもしれない。「訳者あとがき」では、つぎのように説明している。「本書は前書[『想像の共同体』]の続編的位置づけにある。前書ではナショナリズムの誕生と展開の過程を非ヨーロッパ的視点から描写した。しかし、一九七〇年代における英国でのナショナリズムをめぐる言説に論争的に挑むという意図を秘めていたために、想定読者は英国の知的伝統を所与とする人びとであった」。「それに対して本書はそうした知的論争から自由であり、広い読者に開かれている」。


 しかし、もしわずか1頁の著者による「後記」が、重要な意味をもつなら、想定読者は「毛沢東主義の「新」共産党の影響が色濃く残っている」「急進的なナショナリストとして有名なフィリピン大学」関係者で、本書はかれらのフィリピン革命史観にたいする挑発かもしれない。本書の原著が2005年に出版されて、数年がたった。「日本語版への序文」のつぎのパラグラフは、日本人ではなくフィリピン人の読者に向けてのものかもしれない。「本書は、偏狭な国民国家主義的歴史叙述という枠組みに対する一種の批判の書として読むこともできる。その歴史叙述では、ひとえに国民国家の枠組みで構成されるために、個々のナショナリズムの特殊性を過度に強調し、その結果として外部世界は軽視される。ところが実際には、ナショナリストとして知られる思想家や指導者は少なからず、故郷を離れて異国の地を旅し、そこで生活し、教育を受けてきた。かれらは未知の言語を習得し、外国人が書いた新聞、冊子、小説を読み、反植民地主義的思想を有する自由主義者や左派活動家(特にアナーキスト)と親交を深めた。ここからもわかるように、ナショナリズム国際主義インターナショナリズム)と不可分であり、そのように理解する必要がある」。出版後数年間に、とくに反響のあったフィリピン人だけを対象にしたわけでもないだろう。著者は、前書『想像の共同体』を「偏狭な国民国家主義的歴史叙述」として読んだ者にたいして、わざと「正反対な事柄を話題」にした本書を書いたのかもしれない。本書についていけないと感じた人は、「偏狭な国民国家主義」者かもしれない。


 当然、著者の「挑発」にのったフィリピン人研究者は、個々の事実誤認を指摘したりして反論するだろう。それこそが、著者が批判の対象とした「偏狭な」ものにほかならない。本書でとりあげた3人は、国民国家という枠組みで発想もしていなければ、行動もしていない。「初期グローバリゼーションの展開」のなかで考え、行動した人びとである。「後期」に突入したいまだからこそ、「初期」のことがわかる。その意味で、「初期」の研究はいまが「旬」なのかもしれない。


 そして、本書がフィリピンを専門としているわけではない研究者によって翻訳されたことは幸いであっただろう。とくに近代に教育を受けたフィリピン研究者には、気になることがあまりに多く、翻訳することができなかったであろうし、訳注をつけはじめたら切りがなく、出版することができなかっただろう。出版できたとしても、もうとっくに「旬」をすぎたころかもしれない。訳者は、そのことを重々承知のうえで、このような時代と社会がわかるほんとうの意味での世界史を日本人にも伝えたくて、翻訳を決断したのであろう。その決断にも拍手を送りたい。


 本書は、初期グローバリゼーションだけを扱うのではなく、その前後やグローバリゼーションの影響が少ない国や地域も考慮に入れて、グローバリゼーションを相対化しているという意味で、グローバル史ではなく世界史である。グローバリゼーションを強調するあまり、帝国中心のバランスを欠いた歴史叙述になることからも免れている。その免れえた理由のひとつは、英語がまだ「国際語」ではなかった時代を、その雰囲気を感じてもらうために、スペイン語、ドイツ語、フランス語、タガログ語などで書かれた史料を原文のまま引用し、著者自身の英訳を添えていることからもわかる。これだけの言語が理解できる著者だからこそ、「失われた知識人」たちの世界に入っていった本書が書けたといえる。日本語訳でも、原文はそのまま掲載している。アナーキストナショナリストも、この多言語社会のなかで交流し、「つながった」。英語だけが支配的な「国際化」への警告かもしれない。ひとつの「国際語」だけでは、とくに人文学的なことは、多文化共生社会とは無縁な「知の帝国主義」的理解に陥る危険性がある。


 本書のような「冒険」は、フィリピンを専門としている研究者だけでなく、ヨーロッパや中南米などを専門としている研究者からも批判されるだろう。その批判が、この「冒険」を読んだからできたのであるなら、その「冒険」をつぶすのではなく、「冒険」の先にあるさらなる「冒険」をめざさなければならない。著者は、この3つの旗とその「つながり」がわかることによって、現代のグローバリズムがよりよくわかるようになるのだと言っているような気がした。


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