『大韓民国の物語』 李榮薫 (文藝春秋)
韓国で2006年に日本とアメリカの研究者も参加した『解放前後史の再認識』(以下『再認識』)という論集が出版された。専門的な学術書だったが、実証的な研究にもとづいて従来の通説、特に日本の植民地支配によって韓国の近代化が抑圧されたとする植民地収奪論をくつがえす内容だったので大きな話題になった。本書はその内容を編者で韓国歴史学界の新しい潮流を代表する李榮薫氏がラジオで一週間紹介した原稿をもとに書き下ろした本である。ラジオ放送がもとだけに語り口は平明で随所に小説や詩、流行歌を引用しており、お堅い内容にもかかわらず韓国では異例のベストセラーになったという。
『大韓民国の物語』という表題は大韓民国という国家の正統性を確認しようという意味あいがある。韓国では大韓民国は間違って建国された国家で、北朝鮮こそが正統な国家だとする左翼史観がいまだに横行しており、歴史教科書にまで影響をおよぼしている。
大韓民国否定説を決定的にしたのは1979年から10年がかりで刊行された『解放前後史の認識』(以下『認識』)という全6巻の論集だった。あわせて百万部も売れ、いわゆる386世代の歴史認識を決定したという。盧武鉉前大統領も何度も繰りかえし読んだと語っているよし。『再認識』はこの『認識』で広まった通説を覆そうという趣旨で刊行された。
大韓民国否定説がどのようなものか、李榮薫氏は次のように要約している。
日本の植民地時代に民族の解放のために犠牲になった独立運動家たちが建国の主体になることができず、あろうことか、日本と結託して私腹を肥やした親日勢力がアメリカと結託し国をたてたせいで、民族の正気がかすんだのだ。民族の分断も親日勢力のせいだ。解放後、行き場のない親日勢力がアメリカにすり寄り、民族の分断を煽ったというのです。そして、そのような反民族的な勢力を代表する政治家こそ、初代大統領の李承晩であるというのです。
これを読んでははあと思う読者は多いだろう。韓国の執拗な反日攻撃の根には韓国内の対立があるのである。
李承晩が批判されているのは主に農地改革を妨害したとされる点である。韓国でも日本と同じような農地改革が第二次大戦後におこなわれたが、通説では李承晩は農地改革法案の成立を遅らせ、その間に地主は法外な値段で土地を小作農に買わせた。法案成立前に小作農が買わされた土地は農地改革の対象となる土地の半分以上におよんだ。そもそも北朝鮮では地主からとりあげた土地を無償で人民にわけあたえたのに、李承晩は小作農から金をとった、云々。
意外なことに韓国では農地改革問題は朝鮮戦争の位置づけに直結している。『認識』に大きな影響をあたえたブルース・カミングス『朝鮮戦争の起源』(1981)によれば植民地時代からはじまっていた貧農の革命的要求は日本の敗戦後に激化し、各地で紛争が頻発した。アメリカ軍政は地主側の肩を持ち、農地改革を妨害したが、革命勢力は1946年の大邱暴動、49年の済州島と麗水、順天の反乱、さらには各地のゲリラ活動で抵抗した。朝鮮戦争はこうした階級闘争の一環だから、最初に侵攻したのが南北どちらは問題ではないというわけだ。
1970年代には朝鮮戦争は北朝鮮からしかけたという証拠がそろい、韓国の北侵ではじまったとする左翼の捏造史観が崩壊しかけていたから、カミングスの「修生説」は大歓迎され、韓国歴史学界を席巻した。『認識』はそうした背景でつくられた論集なのである。
李承晩が農地改革を遅らせたというのは誤りだ。李承晩は当初こそ地主を基盤とする韓民党を頼っていたが、独裁権を握ると大衆的基盤を固めるために地主層を切り捨て農地改革を積極的に進めた。1949年3月の国会に上程された改革案では農民負担額は平年収穫高の300%となっていたが、無理矢理150%に引き下げさせた。反共主義者で国家の強制という形を嫌った李承晩は法案をちらつかせて地主層に圧力をかけ、自主売買で小作農に土地を売るように仕向けたが、自主売買の価格は法定価格より低いのが一般的だった。
農地改革が成功したことを何よりも物語るのは北朝鮮侵攻時に農民蜂起が起こらなかったことだ。金日成は北朝鮮軍がソウルを占領すればアメリカ帝国主義に虐げられた小作農が各地で蜂起し、韓国という国家は一挙に崩壊すると信じ、スターリンや毛沢東にもそう請け合っていたが、その目論見は完全にはずれた。全耕地の96%が自作農の私有財産になっていたからだ。むしろ哀れなのは北朝鮮の農民だ。無償で土地を分配されたものの、すぐに国家にとりあげられ、農業集団化が強行されたからだ。
農地については日本統治時代朝鮮総督府が土地調査を口実に40%の農地を強奪し、日本からの移民に安くわけあたえ日本人地主を大量に誕生させたという土地収奪神話がある。
この説は比較的新しく1950年代に生まれた。最初に主張したのは李在茂で農民が所有観念が希薄で申告という手続に不慣れなことにつけこみ、総督府は期限を設けることで大量の無届地が出るようにしむけ、その無届地を国有地にして日本人や東拓に廉価で払い下げたとするものだ。この説は1962年に一部の中学用国史教科書に採用されたが、1974年に教科書が検定から国定になった際すべての教科書に載るようになり40%収奪説が定説化してしまった。それに輪をかけたのが歴史小説である。1994年から刊行のはじまった趙廷来の『アリラン』シリーズは土地調査事業の時代を舞台にしており、朝鮮人買弁が日本人巡査と結託して愚かな農民から土地を奪い、抵抗する農民を日本人巡査が即決で銃殺するストーリーだった。
教科書に載るほどの説なのに学術書が出たのは1982年の慎鏞廈『朝鮮土地調査事業研究』が最初だった。慎氏は「片手にピストルを、もう片手には測量器を抱えて」という扇情的な表現で土地調査事業を批判したが、とりあげられた事例は1918年出版の土地調査事業の報告書からとったもので、紛争当事者の主張を中立的に紹介した原本を、ことごとく国有地と判定されたかのようにねじまげて紹介していた。
しかし同書の出版に前後して土地調査事業の文書が大量に発見され、実証的な研究がはじまった。李榮薫氏はこの研究を主導した人でその成果を本書で次のように要約している。
結論的にいえば、総督府は国有地をめぐる紛争の審査においては公正であり、さらには、既存の国有地であっても民有である根拠がある程度証明されれば、これを民有地に転換するという判定を下すのに吝かではありませんでした。そのような紛争を経たのち、残った国有地は全国の四千八百四万町歩の土地の中で十二・七万町歩に過ぎませんでした。それすら大部分は一九二四年までは日本の移民に対してではなく、朝鮮人の古くからの小作農に有利な条件で払い下げられていました。
そもそも農民の土地の所有観念が希薄だという前提が誤りだった。17世紀には土地私有が事実上認められており、李朝末期には所有観念が成熟していた。総督府の近代的所有権制度が受けいれられ、後の近代化につながったのは所有観念の成熟があったからである。手続に不慣れというのも事実とは違った。農民は三年に一度戸籍を申告しなければならなかったので手続には慣れていた。
実証的な研究が出たので歴史学の世界では根拠のない土地収奪説は下火になるが、歴史教科書はあいかわらず40%収奪説を載せつづけているという。
韓国では日本の植民地支配は世界に類を見ないほど過酷で暴力的だったとしているが軍隊が出てきたのは三・一独立運動だけである。日本人人口は最大でも75万人で全人口の2.7%にすぎない。大部分は都市と港湾部に居住し、内陸部では駅の近くに住んだ。農村部では村に5~6人で駐在所の巡査と小学校の校長、教師、水利組合と金融組合の職員くらいである。
日本の植民地統治は多数の朝鮮人テクノクラートに依存していた。日本の敗戦が伝わると慶尚道の両班村では歓声が上がったが、平民の村は静寂だったという話が紹介されている。李朝時代に差別されていた平安道でも同様の光景が見られたという。
日本の植民地支配を歓迎する人々がいたのは総督府が身分制度を解体し両班支配を終わらせたからである。1909年に戸籍を作るにあたり賤民とされた白丁も姓と本貫を持つようになり子弟を学校に通わせるようになる。両班は自分たちの子供が通う学校に白丁の子供を通わせることに対して反対運動をはじめたがすぐに鎮圧された。
総督府に協力したのは代々郡県の行政実務を担当してきた衙前や中人という中間層である。彼らは文字が読め計算ができたが、社会進出には限界があった。1876年の開港後、そうした層から商人や地主になって経済的に成功をおさめる者が出てきた。日本時代の農村は彼ら新興地主が支配し両班層は適応できずに衰退した。
さて慰安婦問題である。著者は慰安婦をアメリカ兵相手の公娼と同一視したとして世論の吊るし上げを受けたことがあるそうだが、挺身隊は慰安婦ではないと断言し挺身隊=慰安婦という通念が形成された経緯をたどっている。挺身隊が募集された1944年当時から一部では混同があったが一部にとどまり、1960年頃までは挺身隊=慰安婦という集団的記憶は成立していなかったという。しかし大衆小説などを通じて挺身隊=慰安婦の同一視がしだいに広まり、1991年に自分は慰安婦だったと名乗り出た女性が登場したことから一気に社会通念になったとしている。
著者はマスコミの影響には言及しているが、挺身隊=慰安婦と報じた1991年8月の朝日新聞の「誤報」というか捏造報道についてはふれていない。池田信夫氏が「慰安婦について調査委員会を設置せよ」などで再三指摘しているように朝日新聞の関与は重大だが、せめて訳書ではふれるべきではなかったか。
著者は行政ルートで慰安婦が募集・動員されることはなかったが、総督府の女衒取締りは「はるかに誠意が不足」しており、事実上の黙認状態にあったとことわった上で、以下のように述べている。
私の考えでは、農村の困窮があまりにもひどく、女性たちを押し出す力が強力だったため、外部からそれを引っ張る力も強力であり、官側としては敢えて強制力を動員しなくてもいい状況にありました。傍観しているだけでおのずから作動するほど、活発に回転する人身売買のマーケットが成立していたのでしょう。その点で、一九四四年八月に日本へ男性労働力を送り出すために発動された国民徴用令の場合とは、事情が異なると思われます。
韓国でここまで書くのは相当勇気のいることだろう。
日本は36年間の植民地支配の間に朝鮮半島に多くの資産を残したが、物的資産は北朝鮮に集中していた。木村光彦&安部桂司の『北朝鮮の軍事工業化』に詳述されているように、日本軍の兵站基地となっていた北朝鮮地域は爆撃をまぬがれたので重工業施設はほぼ無傷で残った。一部はソ連軍が持ち去ったが、北朝鮮の一人あたり鉄道長は日本内地以上だった。1960年代まで北朝鮮が韓国より経済的に優位だったのは日本の遺産のおかげである。
北朝鮮は物的資産は受け継いだものの、制度的資産は日帝の残余として一掃してしまう。植民地時代に教育を受けた官吏や企業人、学者は人的資産というべきだが、その多くは韓国に逃げるか処刑されたり強制収容所にいれられてしまう。
一方韓国は朝鮮民事令をほぼそのまま大韓民国民法にしたように植民地時代の制度を引き継ぎ、戦時経済で停止されていた市場経済を復活させる。人的資源を親日派として排斥する動きもあったが、李承晩は精神まで日本人になろうとした一部のイデオローグ以外は受けいれ国家運営に積極的に活かした。まさにこの点が盧泰愚政権時代に問題になったわけであるが、著者は現実的な判断として李承晩を評価している。
日本の植民地支配によって韓国の近代化が進んだとする立場を植民地近代化論というが、それに決定的な影響をあたえたのはエッカートの『日本帝国の申し子』だった。『再認識』にはエッカートも「植民地末期朝鮮の総力戦・工業化・社会変動」を寄稿しているが、著者は植民地支配が人的資源をはぐくんだ点は賛同するものの総督府が民族資本育成策をとり「漢江の奇跡」の開発独裁モデルの先蹤だったという点には異論を唱えている。辻褄があわないが、これも韓国内で発言する限界か。
著者は韓国の民族主義の起源は日本統治時代にあるとしている。そもそも「民族」という言葉は日本から輸入された外来語であり崔南善が「三・一独立宣言」に用いて広まったにすぎない。「同胞」という言葉は李朝時代からあったが「民族」概念とは無関係だったし、「ギョレ」という語はハングル学者の崔鉉培が「民族」に対抗して「ギョレ・プチ」(血族、一族郎党)から作った造語だ。李朝時代は奴婢と両班が一つの血筋でつながった運命共同体だと考える人はいなかった。白頭山神話も李朝時代は朱子学の自然観を象徴する山だったのを、崔南善が1920年代に民族の象徴として持ち上げるようになってから広まった今できの神話である。
韓国の歴史において民族という集団意識が生じるのは二十世紀に入った日本支配下の植民地代のことです。日本の抑圧を受け集団の消滅の危機に瀕した朝鮮人は、自分たちは一つの政治的な運命共同体であるという新たな発見に至り、民族という集団意識を共有するに至りました。白頭山が民族の生地に変わるのは、まさにその過程においてです。
韓国の民族意識は対中国や対アメリカとの関係でではなく対日本との関係で形成されたのだ。韓国の民族主義は反日と切っても切れない関係にあるのだ。著者は民族概念は20世紀の産物で徐々に消えていくとしているが、さてどうだろう。
著者は朝鮮人の武装独立戦争には実体がなく、朝鮮半島は「アメリカが日本帝国主義を強制的に解体したはずみで解放された」ことを認め、解放前後史の混乱はこの点を明確にしてこなかったから生まれたとしている。まったくその通りで、韓国でそこまで書くのは大変なことだと思うが、ただし次の条はいかがなものか。
世界的にみて一九四五年まで存続した帝国主義下の世界体制は、植民地の民族が勇猛果敢に武装独立戦争を行なった結果として解体されたものではないという事実です。私が知る限りではそのような経緯で独立した国は一つもありません。その点において、私たちが自分の力で日本から解放されなかったという事実を恥じる必要はありません。全世界がそうだったわけですから。
インドネシアやミャンマーやベトナムの人がこれを読んだら怒りだすことだろう。第二次大戦後韓国のように棚ぼたで独立した国もあったが、もどってきた宗主国と民族の血を流して戦い、自力で独立した国の方が多かったのである。著者がまさかそんな常識を知らないとは思えないから韓国ではそこまで書けないということなのかもしれない。