『グローバル社会を歩く-かかわりの人間文化学』赤嶺淳編(新泉社)
フィールドワーカーの本音が聞こえてくる。それは、編者の赤嶺淳が執筆者に、「「わたし」という一人称を主語に文章を綴ってほしい」とお願いしたためである。かつてのお行儀のいい研究成果報告ではなく、現地の人びとと苦労や悩みを分かち合いながら試行錯誤している様子が伝わってくる。
本書の目的は、「グローバル社会のフィールドワーク-編者あとがきにかえて」の冒頭で、つぎのように述べられている。「社会学や文化人類学など、人間と自然、人間と文化/社会といったさまざまな関係性(かかわり方)について学ぶわたしたちが、フィールドワークの過程で感じたこと、悩んだこと、考えたことに焦点をあて、今後の人文・社会科学系学問のあり方を提示することにあった」。
「具体的には、わたしたちが日本をふくむ世界各地で実施してきたフィールドワークの具体例をつうじて、①「グローバル社会」がかかえる問題点をあきらかにするとともに、②そうした問題群に対し、調査者がいかにかかわってきたのか、③そうした「かかわり」をとおして調査者がどのように変化し、④結果として、そのことが調査研究にいかなる変化をおよぼしてきたのか、を再帰的に考察することが本書の目的であった。七名の調査者の個別経験を束ねることで、複雑怪奇なグローバル化時代の動態をあぶりだす手法としてのフィールドワークの意義はもとより、よりよい社会を構築していくための学問-人間文化学-の実践的ツールとしてのフィールドワークの可能性を再確認したいと考えたことが、本書編纂の意図である」。
本書は、Ⅲ部6章からなり、それぞれの部は2章からなる。第Ⅰ部「人間と環境」では、「一九七〇年代以降の現代社会を特徴づける環境主義-野生生物を守ろうという社会運動-の世界的高まりのなか、野生生物を利用してきた人びとや地域がかかえる問題を紹介し、そうした問題群に地域社会がいかに対応しているかを報告」している。第1章「ともにかかわる地域おこしと資源管理:能登なまこ供養祭に託す夢」では、「いわゆる絶滅の危機に瀕した野生生物の国際取引を規制するワシントン条約」の「俎上にあるナマコにやどる地域史をほりおこす作業」が紹介されている。第2章「自然の脅威と生きる構え:アフリカゾウと「共存」する村」では、「野生動物保護を夢みて青年海外協力隊員として東アフリカのタンザニアで理数科教員として働いた経験をもつ」執筆者が、「もっとアフリカのために役立ちたいと大学院に進学し、環境社会学を修め」て、「外来のものではない、村人たちによる内発的な野生動物管理の方法を試行錯誤」している様子を伝えている。
第Ⅱ部「ことばと社会」では、「南ヨーロッパの少数言語と中・西部アフリカの手話言語の保護と普及の問題」を扱っている。第3章「言語を「文化遺産」として保護するということ」では、「言語に「絶滅」というラベルをはりつけるのは研究者だと主張し」、「国連やユネスコといった国際機関が少数言語の保護をうたうということの政治性を、自身が研究するフランスやイタリアの地域的文脈から問いなおして」いる。第4章「フィールドワーカーと少数言語:アフリカと世界の手話話者とともに」では、「手話言語を少数言語ととらえ、日本手話、アメリカ手話、フランス語圏アフリカ手話など複数の手話言語を話す」執筆者が、「フィールドワーカーと少数言語との関係は、調査手段と研究対象以外にもあるはずだ、という疑問にはじまり、コートジボワールでの調査経験をふまえ、手話言語を習得し、手話言語で発言していくという行為が自身の研究の遂行に必須であり、かつ調査対象である少数言語集団の権利の擁護に貢献するという実践的側面をもつことを指摘して」いる。
第Ⅲ部「調査と現場」では、「自主避難」と日本の社会調査について論じている。第5章「「自主避難」のエスノグラフィ:東ティモールの独立紛争と福島原発事故をめぐる移動と定住の人類学」では、東ティモールと福島という一見なんの繋がりもないかのようにみえる両者を、ともに「故郷に帰るべきである」というイデオロギーに拘束される人びとの苦悩という観点で、その移動と定住の日常性を描いている。最後の第6章「海外研究・異文化研究における調査方法論:社会調査の前提をとらえなおす」では、「日本の社会学が想定している社会調査が自文化(つまり日本社会)のみを対象としてきたことを指摘し、人類学や地域研究の方法論と比較しながら、異文化理解のための社会調査の方法について示唆に富む提案をおこなって」いる。
歴史学には、ある失敗がある。ヨーロッパ中心史観という批判はもう半世紀以上前からあるし、ナショナル・ヒストリーへの批判もいわれるようになって久しい。にもかかわらず、いまだ同じ批判が繰り返され、その批判が克服されないまま歴史教育がおこなわれている。理由は簡単である。ともに近代化を中心に扱ったからである。近代をリードしたヨーロッパの概念であらゆる時代・地域の歴史を観、近代化を目指した国民国家の視点で自国史を観てきたからである。とすると、いま、グローバル化している面を中心に観ていくと、以前からその社会に存在していたグローバルな面を近年起こったように認識したり、グローバル化とは無縁な現象を切り捨てたりするおそれがある。グローバル化を相対化しないで、現代をグローバル社会と位置づけると、見落としたり見誤ったりすることが起きてしまう。
本書で、それぞれの執筆者が、悩み、傷つきながら、調査地の人びとと向き合っているのも、近代のようにものごとを単純・合理化してとらえることができないからだろう。それは、帯にあるつぎの文章からもよくわかる。「人やモノ、情報が瞬時に国境を越えるグローバル社会。人類社会が単一化・均質化していっているかのように見えるなか、さまざまな地域に生きる人びとといかにかかわりあい、学びあい、多様性にもとづくあらたな関係性をともに紡いでいけるのか。フィールドワークの現場からの問いかけ」。本書から、この問いかけに応えることができる人材を育てようとする意識も伝わってきた。