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『表象の奈落――フィクションと思考の動体視力』蓮實重彦(青土社)

表象の奈落――フィクションと思考の動体視力

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●「クリティークとフィクション――哲学の批評、文学の批評、批評の批評」

 表象不可能性に触れずにいられない粗雑な思考――好奇心あふれた厚顔無恥――に決して屈しないこと。蓮實重彦は「批評」をその抵抗の身振りとして提示する。蓮實によれば、批評とは、言い換えの作業、とりあえずの翻訳にほかならず、それは他者の言説のなかで潜在的に微睡んでいる然るべき記号に触れ、それを顕在化させることから開始される。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容し、その出来事を通して、批評の主体も変容させられる。しかし、この二重の変容を介して、とりあえずの翻訳にとどまるしかない批評は、その宿命として、あるとき、表象の奈落を目にすることになるだろう。表象の奈落においては、もはや他者の言説や覚醒すべき記号は存在しない。批評は批評を超えた何やら不気味なものに触れることになる。蓮實によれば、人が「フィクション」に出会うのも、そうした場合に限られる。本書は、このような認識のなかで綴られ構成された、批評とフィクションという主題をめぐる「批評」論集である。

 蓮實の批評は、批評家を追悼することで始まり、批評家を論じることで終わる。それに挟まれるかたちで、哲学者や小説家など、いくつもの異なる他者の言説を対象とした論考が展開される。ここでは、複層的な批評的問題系をめぐって、主題論的かつ説話論的に綿密な考察が繰り拡げられる。この批評的試みは、他者の言説における無数の記号のうち、どの記号に触れて目覚めさせるかという「動体視力」の問いを提起することになる。蓮實の批評の瞠目すべき点は、その思考の動体視力の速度と、顕在化された記号分析の強度につきている。この特異な思考を通して、まず、バルトの「倦怠する記号」に対する紳士的な「いたわり」が考察され、「ギリシャ人」とともにあるドゥルーズ的思考の「恩寵」が顕在化され、デリダ的な「芸術への無関心」における「文学/批評」と「物語=歴史」の問題が提起される。同様に、フーコーが見せた「近代」への躊躇と「十九世紀」への執着や、フーコーにおける「視線」と「技術」、「権力」と「知」の関係論的位相が巧みに描き出される。あるいは、「エクリチュールの人」としてのソシュールの記号概念と二重の差異の構造が明らかにされ、ポッティチェルリの絵画が「足」の数をめぐって読み解かれ、また、サルトルの日記が名を持たぬ「私」という側面から問題化される。続いて、フローベールの『ブヴァールとペキュシェ』が「固有名詞」と「人称」、「肉筆」と「黙読」という主題系から説話論的に分析され、また、セリーヌの『北』における「曖昧さの均衡」の「面白さ」や、ヨーロッパ的思考と小説の構造におけるヴァレリーという「負の記号」の特権性が明示される。さらに、「フィクション」という問題系をめぐって、さまざまな哲学者や言語学者の言説の不備や粗雑さが指摘されるとともに、その言説のなかに氾濫している「赤」の主題が「怪物」として読み解かれる。そして最後に、バルトが再考され、「疲労への権利」や「失敗の成功」を通じて「新たな生」へ至る「変化」の実相が明らかにされる。

 哲学の批評、文学の批評、批評の批評。蓮實の批評は、このように異なる他者の言説を対象とすることによって、その主体性を自在に変容させつつ、多層的に構築されている。それは、テクストの主題論的あるいは説話論的な読解の開かれた可能性を意味している(作者の意図や言説の論理を超えた意味作用の戯れ)。とりわけ、本書で展開され、次書に引き継がれる「フィクション」をめぐる「間テクスト」的な考察は注目に値するものだろう。この「フィクションの快楽」とでも呼ぶべき主題論的読解こそ、フィクションの批評的分析にふさわしい蓮實的身振りである。サールをはじめ、ジュネット、アウエルバッハ、スペルベルシェフェール、リクールなど、フィクションの理論家たちには採用されなかったこの批評的視点によって、作者の意図や言説の論理のなかで仮死状態に陥っていた言語記号を覚醒させ顕在化することができるのである。さらにいえば、そこでは、フィクションをめぐる理論そのものが、フィクション的な言説へと変貌する可能性が示されているのだ。蓮實によって提示される「起源」を欠いた「赤」の「怪物」の主題系は、作者の意図や言説の論理のコンテクストを軽やかに破壊することで、まさに、哲学や文学における間テクスト的な網状組織の様態を鮮明に描き出すことに成功しているといえよう。蓮實における「フィクションと思考の動体視力」は、彼自身が指摘するように、「いかなる絶対的な責任からも最終審級の権威としての意識から切り離され、孤児としてその誕生時より自らの父の立ち合いから分離されたエクリチュール――こうしたエクリチュールによる本質的な漂流……」(デリダ「署名、出来事、コンテクスト」)のなかを自在に生きているのであり、それが、蓮實自身のテクストをフィクションに限りなく接近させることになるのだ。いうまでもなく、この批評的姿勢によって、蓮實はバルトと深く共振し、『彼自身によるロラン・バルト』の「映画のようなリメイク」を、フィクション的な言説によって試みることになるのである。こうして、「批評」と「フィクション」が理論を超えて奇妙な関係を描き出し、そこにおいて、哲学の批評、文学の批評、批評の批評が、統合的に表象と思考そのものをめぐる根本的な問いへと拡張されていく。

 このように、本書は、表象と思考をめぐる批評とフィクションという主題を通して、新たな「批評」の可能性を提示する。その可能性とは、批評という身振りによって自らをつねに変形させ、そのことによって、閉域化する理論を内側から破壊するような真に批評的な力能にほかならない。さらにいえば、この批評的な試みは、現在の形骸化した人文知そのもの――表象不可能性や思考不可能性という魅力に慣れ合う、慎みの徹底した不在――を問うことにもつながるだろう。「批評」が真に「批評」たりえるのは、そのような「知」そのものを問うことによってであるからだ。本書は、その意味で、徹底的に「批評」論集たろうとする身振りによって組み立てられているといえるだろう。

(中路武士)

・関連文献

Roland Barthes, Roland Barthes par Roland Barthes, Seuil, 1975.(『彼自身によるロラン・バルト』、佐藤信夫訳、みすず書房、1979年)

Jacques Derrida, Limited Inc., Galilée, 1990.(『有限責任会社』、高橋哲哉・増田一夫・宮崎裕助訳、法政大学出版局、2002年)

蓮實重彦『「赤」の誘惑――フィクション論序説』、新潮社、2007年。

・目次

 Ⅰ 墓の彼方の追想

    倦怠する彼自身のいたわり ――ロラン・バルト追悼

    ジル・ドゥルーズと「恩寵」 ――あたかも、ギリシャ人のように

    「本質」、「宿命」、「起源」 ――ジャック・デリダによる「文学と/の批評」

Ⅱ フーコーの世紀

    フーコーと《十九世紀》 ――われわれにとって、なお、同時代的な

    視線のテクノロジー ――フーコーの「矛盾」

    聡明なる猿の挑発 ――ミシェル・フーコーによるインタヴュー「権力と知」のあとがきとして

 Ⅲ 記号と運動

    「魂」の唯物論的擁護にむけて ――ソシュールの記号概念をめぐって

    視線、物語、断片 ――ポッティチェルリの『春』と『ヴィーナスの誕生

    命名の儀式 ――サルトル『嘔吐』にたどりつくまで

 Ⅳ 近代の散文

    『ブヴァールとペキュシェ』論 ――固有名詞と人称について

    曖昧さの均衡 ――セリーヌ著『北』を読む

    小説の構造 ――ヨーロッパと散文の物語

 Ⅴ フィクション、理論を超えて

    エンマ・ボヴァリーとリチャード・ニクソン ――『ボヴァリー夫人』とフィクション

    「『赤』の誘惑」をめぐって ――フィクションについてのソウルでの考察

    バルトとフィクション ――『彼自身によるロラン・バルト』を《リメイク》する試み


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